コラム >> 石田隆至


長すぎた「戦後」に向き合う(2)

罪を赦す苦しみを受けとめる:加納莞蕾の戦後

戦後の平和教育といえば、広島・長崎の被爆体験が主に扱われてきた。繰り返してはいけない惨劇であることはいうまでもない。しかし、日本の枠を越えてヒロシマ・ナガサキを捉えるとき...

長すぎた「戦後」に向き合う(1)

平和を作り出そうとした 戦争経験者と「伴走」する

私たちは当たり前のように「戦後」という枠組で “いま”を捉えている。これは奇妙なことではないだろうか。 対中国15年戦争が終わってからまもなく80年にもなる。新中国の建...

日中の平和友好への鍵を探る(6)

自らの主体性を 取り戻すための反省へ

侵略戦争への贖罪意識だけでは戦後生まれの世代には継承されにくい。“戦略的互恵関係”といったドライな理念は時の状況に簡単に翻弄されてしまう。日中関係を開く「鍵」は思いもしな...

日中の平和友好への鍵を探る(5)

地域の被害を掘り起こす:青年が未来に託す歴史

半年ほど前、自分が暮らす地域の戦時中の歴史に向き合う中国の青年と知り合った。若い世代が負の歴史に積極的に関心を持つのは、中国でも珍しい。経済成長が進んで自己実現の機会が高...

日中の平和友好への鍵を探る(4)

2つの「10月25日」と「台湾問題」

現在の日中関係の焦点の一つは「台湾問題」にある。 これについて語るとき、必ず言及されるのが「一つの中国」という立場である。台湾を含めて中国は一つの主権国家であるという概...

日中の平和友好への鍵を探る(3)

国交回復後の世代が紡ぐ 日中友好の“かたち”

45年前、平和友好条約の締結に臨んだ人たちは、後に続く世代の日中関係をどう思い描いていただろうか。 筆者を含めた国交回復後に育った世代には、「日中友好」というフレーズは...

日中の平和友好への鍵を探る(2)

地域の加害責任に向き合う 日中友好運動

近年、日中友好を掲げる運動の中にさえ「中国脅威論」の浸透を感じることがある。さすがに“中国は脅威だ、攻撃に備えよう”とまでは言わない。ただ、“中国は発展して大国になり、膨...

日中の平和友好への鍵を探る(1)

「以民促官」で 原発汚染水処理を!

「中国脅威論」が高まっている。とはいえ、中国に対する警戒感を持ってはいても、できれば日中関係を好転させたいと願っている人々は少なくないだろう。ましてや、中国を敵視する現状...

国交回復後の50年を生きなおす(5)

「台湾問題」:日本社会はどう映っているか

 この秋、日本社会の戦争観に関する文献を中国の大学院生と輪読した。田中角栄元首相に関する受講生の反応が興味深かった。「私たちが受けた教育の中では、田中は中国への侵略だった...

国交回復後の50年を生きなおす(4)

戦争の「後遺症」のなかで

前回取り上げた孟生保さん(83歳)は、戦争で失われた家族やその戦友たちの尊厳を取り戻すために戦後を歩み続けた。被害調査を続けるのが難しくなった2000年代には、高校生だっ...

国交回復後の50年を生きなおす(3)

戦争被害者は戦後をどう生きたか

国交回復によって戦争被害者とも向き合おうとすればできるようになった。そうした動きはどれくらいあっただろうか。これは無理筋な話ではない。日本社会には、原爆や空襲の被害者に対...

国交回復後の50年を生きなおす(2)

第20回党大会報告と国交回復の含意

国交回復50周年を振り返り、新たな展望を考えていく上で、手がかりとなる文書が中国で先月発表された。第20回中国共産党全国代表大会の「報告」である。日本のメディアではその一...

国交回復後の50年を生きなおす(1)

「始まり」としての日中国交回復

 1972年9月、「平和友好関係を樹立」することを目的として、日中間の国交が回復した。直後のパンダ贈呈に始まり、友好交流は活発化した。ただ、80年代には早くも歴史認識問題...

新中国の平和のあゆみ 第5回

「家族」のように思いやる日中関係を目指して

石田隆至 上海交通大学副研究員

  山邉悠喜子が乳児を抱えて夫とともに帰国したのは、敗戦から8年後の1953年だった。生活基盤はなかったが、「これさえあれば生きていける」と思える...

新中国の平和のあゆみ 第4回

支え合う民衆の主体性を取り戻させた階級論

石田隆至 上海交通大学副研究員

「日本より中国の方が居心地がいい。あぁ中国に帰りたい」。93歳になる山邉悠喜子は遠くを見ながら今も口癖のように呟く。     前...