新中国の平和のあゆみ 第4回
支え合う民衆の主体性を取り戻させた階級論
石田隆至 上海交通大学副研究員

「日本より中国の方が居心地がいい。あぁ中国に帰りたい」。93歳になる山邉悠喜子は遠くを見ながら今も口癖のように呟く。

 

 

前回まで見てきた元戦犯以外にも、建国期の中国で「得たもの」を帰国後の日本で活かそうとする民間人がいる。

山邉は1941年に家族と共に「満洲国」の本渓に移り住み、敗戦時は17歳の女学生だった。日本支配が崩壊し、息を殺して過ごしていたある日、13歳程の優しそうな中国の少年兵が鍋を借りに来た。山邉の母はいちばん古い鍋を渡した。数日後、少年兵は綺麗に洗った鍋を返しにきた。日本軍なら返却することはまずなかったうえ、中には根菜が入っていたので二重に驚いた。貴重な食糧を受け取れないと断ったが、少年は丁寧に頭を下げて帰って行った。言葉も通じず、些細な出来事といえばそうだ。ただ、明日の見えない不安のなか、「助け合って一緒に生きよう」と励まされたような感慨を覚えた。

それからまもなく、東北民主聯軍(後の中国人民解放軍)が国共内戦に備え、負傷兵の治療ができる日本人に協力を求めているのを知った。「あの少年のいた軍隊を見に行くよ」と能天気に参加を決めた。共産党といっても何も知らず、父がなぜ反対したかも分からない軍国少女だった。

衛生部隊とはいえほとんど医療技術のない山邉のような日本人が多く、消毒液の他は医療器具も乏しかった。農村の一軒一軒が病院代わりで出来ることは僅かだったが、負傷兵に対する農民たちの看病が、家族にするように細やかだったことが印象に残った。当初は日本人に対して怒りや蔑みを投げかけてくるのではないかと身構えていたが、対応は穏やかだった。言葉は通じなかったが、時には一緒に寝ずに治療に当たる中で打ち解けていったのは、不思議な感覚だった。

内戦が激化すると四肢の切断が必要な重傷者も増えた。薬も不足し痛みさえ抑えることができず狼狽するばかりで、日本人婦長に叱咤された。婦長も経験豊かではなく、目の前の傷ついた人にできるだけの処置をしようと呼びかけていただけだった。懸命に負傷兵に向き合っているうちに、かつて敵として反目し合っていた相手だという発想が山邉たちからも、負傷した中国兵からも消えていった。処置できず一時的に痛みを和らげながらただ傍にいるしかない状況でも、負傷兵は涙ながらに感謝を述べた。それを前にすると、心の底から労りや愛情が芽生えて、「壁」は次第に薄らいでいった。

1949年1月末に北京が無血解放されると、山邉らの部隊も華北へ入った。戦争が終わって3年以上経っても黄土高原にはまだ十分な食糧が実っていない。日本の侵略の爪痕を目の当たりにした。食事をするにも農村でさえ食料がない。苦労してわずかな穀物を集めて粥を作ってもほとんどが水で、おかずは岩塩だけ。気が付くと、そのお粥を食べる様子を村の子供たちが傍で見ていた。すると、少年兵は食べかけたお椀を子供たちに差し出した。子供たちはお椀を一口ずつ回し飲みした。少年兵といっても、日本軍に親を殺され、行き場がなく軍にいる子供で、わずかに年長なだけだ。山邉も少年兵の真似をして、集まってきた子供たちにお椀を渡した。彼らはやはり半分だけ食べて、返してきた。それは「共に生きよう」という兄弟の愛情という他ないものだった。解放軍で学んだもっとも大事なことは、技術でも思想でもなく、すぐ傍にいる人をどんな相手でも自分のことのように愛するという思い、「同甘共苦」だった。侵略戦争は、民衆の日常生活の根底にあったこうした支え合いを破壊し尽くした。それを取り戻すための主体性を付与したのが階級論だった。貧窮や苦難は宿命ではなく、社会制度によって再生産されているという気付きが「人民のための社会」を渇望させた。

軍と民衆との密接な繋がりはこれに限らない。民衆はどんなに苦しい状況でも、明日の食料さえ提供して負傷兵のためのお粥を作った。軍人の8割は元農民なのでその気持ちが良く分かり、1時間でも2時間でも時間があれば軍服を脱いで畑を耕し、収穫を手伝った。夜には旧社会での苦しみを共に語り、農民に戦況を伝えて励まし合った。軍と農民が一体となって教育し合う関係だった。圧倒的に劣る装備しか持たない軍隊だったが、こうした兵を農民たちは「兄弟」と呼び、我が子のように大事にした。兵士も農民のことを「我的父母」と呼び、民衆と一体となって抵抗が行われた。軍と民が深く結び付き、「運命共同体」となったときに生まれる強みが、軍事的な不利を覆していった。

民衆に根差す姿勢は、日本人に対しても貫かれていた。彼らは日本軍に激しい怒りを感じていたはずだが、山邉らに「お前達は侵略者だ」と糾弾する場面は一度もなかった。むしろ、苦境にあって持てるものをすべて出し切る日々の中で、労り合って過ごした。これほど劣勢でも勝利を確信する朗らかさはどこから出てくるのか。それに惹き付けられ、当初は3ヶ月という話だったが、気が付くと解放軍の兵士たちと南方の広州まで転戦し、共和国の建国を共に祝った。

 

前列左が解放軍での山邉

 

最終的に1953年まで建国の意欲に溢れる人民と一緒に過ごした。建国後、一つだけ寂しかったことがある。「戦友」として対等だった関係が急に「外国友人」として扱われ、遠い関係になった気がした。解放軍は、軍幹部と前線の兵士が対等であることが何よりの特徴だ。そこには言葉にし難い居心地の良さがあり、家族のような温かさ(「一家人」)を湛えていた。その輪の中にずっと居続けたいと感じていたことを、「外国友人」扱いになってはじめて自覚した。誰をも犠牲にせず、一人一人を大切にすることが、回り道のように見えて実は社会全体を豊かにしていく。そうした階級論的実践が、人間に安心感と尊厳をも与えることを身体で感じ取っていたのである。

いまグローバル化が進む世界各国で経済格差が広がる。経済発展が進む中国でも同じだが、官民を挙げてその解消に取り組み、絶対的貧困がほぼ解消していることは知られていない。山邉の眼には、それは特別なことではない。絶望的に見えた階級格差を人民同士が一人も洩らさず支え合う社会に転換することで克服しようとした国家建設が、今も続いていると映る。温かく居心地の良い社会関係を日本でも実現することが、帰国した山邉にとっての平和実践となった。