コラム >> 石田隆至


日中の平和友好への鍵を探る(2)

地域の加害責任に向き合う 日中友好運動

近年、日中友好を掲げる運動の中にさえ「中国脅威論」の浸透を感じることがある。さすがに“中国は脅威だ、攻撃に備えよう”とまでは言わない。ただ、“中国は発展して大国になり、膨...

日中の平和友好への鍵を探る(1)

「以民促官」で 原発汚染水処理を!

「中国脅威論」が高まっている。とはいえ、中国に対する警戒感を持ってはいても、できれば日中関係を好転させたいと願っている人々は少なくないだろう。ましてや、中国を敵視する現状...

国交回復後の50年を生きなおす(5)

「台湾問題」:日本社会はどう映っているか

 この秋、日本社会の戦争観に関する文献を中国の大学院生と輪読した。田中角栄元首相に関する受講生の反応が興味深かった。「私たちが受けた教育の中では、田中は中国への侵略だった...

国交回復後の50年を生きなおす(4)

戦争の「後遺症」のなかで

前回取り上げた孟生保さん(83歳)は、戦争で失われた家族やその戦友たちの尊厳を取り戻すために戦後を歩み続けた。被害調査を続けるのが難しくなった2000年代には、高校生だっ...

国交回復後の50年を生きなおす(3)

戦争被害者は戦後をどう生きたか

国交回復によって戦争被害者とも向き合おうとすればできるようになった。そうした動きはどれくらいあっただろうか。これは無理筋な話ではない。日本社会には、原爆や空襲の被害者に対...

国交回復後の50年を生きなおす(2)

第20回党大会報告と国交回復の含意

国交回復50周年を振り返り、新たな展望を考えていく上で、手がかりとなる文書が中国で先月発表された。第20回中国共産党全国代表大会の「報告」である。日本のメディアではその一...

国交回復後の50年を生きなおす(1)

「始まり」としての日中国交回復

 1972年9月、「平和友好関係を樹立」することを目的として、日中間の国交が回復した。直後のパンダ贈呈に始まり、友好交流は活発化した。ただ、80年代には早くも歴史認識問題...

新中国の平和のあゆみ 第5回

「家族」のように思いやる日中関係を目指して

石田隆至 上海交通大学副研究員

  山邉悠喜子が乳児を抱えて夫とともに帰国したのは、敗戦から8年後の1953年だった。生活基盤はなかったが、「これさえあれば生きていける」と思える...

新中国の平和のあゆみ 第4回

支え合う民衆の主体性を取り戻させた階級論

石田隆至 上海交通大学副研究員

「日本より中国の方が居心地がいい。あぁ中国に帰りたい」。93歳になる山邉悠喜子は遠くを見ながら今も口癖のように呟く。     前...

新中国の平和のあゆみ 第3回

「戦争を終わらせる」裁判から「平和を作り出す」裁判へ

石田隆至 上海交通大学副研究員

今年98歳になる元戦犯の稲田積(仮名)は、ある時珍しく「そんなバカな話があるか!」と声を荒げた。〝戦犯の寛大釈放は外交取り引きとして行われた〟という趣旨の論文が発表さ...

新中国の平和のあゆみ 第2回

戦犯および裁判関係者たちは葛藤にいかに立ち向かったか?

石田 隆至 上海交通大学副研究員

65年前、新中国での戦犯裁判を終えて帰国した人々は、加害行為の実態を伝える平和運動という形でその反省を具体化した。こうした組織的な取り組みは、東京裁判など他の戦犯裁判...

新中国の平和のあゆみ 第1回

100歳を迎えた元日本人戦犯はいま

石田 隆至 上海交通大学副研究員

今年は、新中国で日本人戦犯裁判が行われた1956年から数えて、65年目にあたる。当時もっとも若い戦犯でも30代半ばであったので、存命でも100歳前後になっていることに...