長すぎた「戦後」に向き合う(5)
沖縄における「信頼の政治」のアジア的文脈

沖縄では、「戦後」がよりはっきりとした形で続き、冷戦構造も継続している。近年では琉球弧の軍事要塞化も進んでいる。

そうした状況下でも、独自の平和追求の文化が静かに長く脈打ってきた。「力の政治」に対峙する「信頼の政治」と言い換えてもいい。同様のうねりは、中国をはじめアジア各国にも見られる。圧倒的な“力”を前にして大きな苦難に晒されてきた地域の中には、力で撥ね返すのではなく、自ら平和と共生を作り出すべく働きかけるアプローチが共通して見られる。それらはいずれも、「戦後」体制を持続させようとする“力”と、せめぎ合っている。

日本本土では、米軍基地は日本の安全保障のために必要な施設、「平和」を維持するための「止むを得ない存在」とみなされがちだ。他方で、米軍基地が集中する沖縄では、基地周辺で米軍による重大事故や犯罪が多発してきた。騒音や環境汚染も深刻で、基地そのものが脅威であり、平和を脅かす存在だと捉えられてきた(写真1)。

写真1:米軍ヘリが大学に墜落

沖縄での反基地運動といえば、現在では辺野古への基地移設が焦点となっている。近年では、中国「脅威」論の高まりと結び付けて取り上げられ、沖縄世論は移設の容認と反対に分岐しつつある。ただ、それよりはるか以前から、米軍基地反対のうねりは存在していた。

たとえば、1956年には「島ぐるみ闘争」と呼ばれる全県的な反基地運動が展開された。敗戦後、日本は連合国によって占領統治され、民主化と非軍事化が進められた。1952年には主権を回復して独立するが、沖縄はそこから切り離され、引き続き米軍の軍事植民地とされた。冷戦が激化するなか、中国やソ連に最も近い基地拠点として、沖縄の地政学的地位が上昇したからである。軍用地の提供・賃借契約に応じない地主からは、「銃剣とブルドーザー」という“力”によって強制的に土地を奪い取った。当初は一時的な軍事利用だと考えられていたが、地代の一括払いが米側から提案されると、永久に土地が奪われると全県的な反対闘争となった。とはいえ、事実上の軍政下で簡単には住民の要求は通らない。そこで、当時の琉球政府の主だった行政官らが総辞職し、米国の統治に協力せず、服従しない意志を示した。米軍の命令を無視して田植えを続ける農民もいた。一足先に土地を奪われていた伊江島の島民は、農地を失うと飢餓に陥る現実を知らしめるべく、沖縄本島を「乞食行進」で縦断した。これが起爆剤の一つとなって島ぐるみ闘争となり、米政府の暴走と渡り合った。

島ぐるみでの運動は、その後も繰り返された。基地周辺での事故や米兵犯罪によって日常生活が脅かされ、住民の人権が蔑ろにされ続けたからである。1959年に米軍戦闘機が小学校に墜落した事故への抗議、1970年のコザ市での市民と米軍との衝突などに代表される。1972年に沖縄が日本に「復帰」した後も、1995年の少女暴行事件への抗議行動、2000年代の普天間基地の辺野古移設反対など、現在まで連綿と続く。先月も、米軍兵士による性犯罪が日米双方によって隠蔽されていた疑いが明らかとなった。米軍基地およびそれに依存する日本政府・自衛隊という圧倒的な“力”の前で、反基地運動は、人権がまもられる生活とは何か、基地は平和をもたらすのか、と問い続けてきた。「民主主義の国」の軍隊がどれだけ反民主的現実を生み出し続けても、平和を求める人々は、米国や日本が少なくとも理念的には人権や平和を重んじる国だという「信頼」に賭けてきた。

沖縄で最初の島ぐるみ闘争が起きていた1950年代半ばに、アジア各国でも「信頼の政治」が模索されていた。中国は1954年にインドや東南アジア諸国との間で、平和共存五原則(領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認し合っている。どの原則も西欧発の主権国家概念と体系を踏まえたものである。これらは従来、西側諸国内部にだけ適用され、その外部には適用されず、“力”による侵略や植民地支配が行われてきた。平和共存五原則には、それへの異議申し立てが込められている。西欧発の主権国家体系を受け入れることで、それを非西側世界にも普遍化することを求めた。平和共存とは、国力の強弱、文明や社会制度の違いによらず、その存在を対等に認め合う「信頼の政治」を掲げたものといえる。

五原則の発表から今年で70年を迎えた。アジアでは今もこの原則を繰り返し確認する必要に迫られている。たとえば、「台湾防衛」を掲げる米国や、「台湾有事は日本有事」を否定しない日本政府を前にして、“台湾解放は中国の内政問題であり、いかなる国も干渉する権利がない”、と中国政府は主張する。これは1950年以降、中国政府が繰り返し指摘してきたことである。中国にとって主権侵害、侵略や内政干渉が今も続いていることを示す。

同じ時期の日中関係は、米国主導の対共産圏封じ込めという“力”の政策に規定されていた。中国は周辺の大国による敵対政策に晒され、政治的共存がすぐには生まれ難い状況にあったが、「信頼の政治」を展開した。残留邦人の帰国や日本人戦犯の扱いを「政治カード」にする日本政府に対し、人道外交として非政治化して寛大に対処した(写真2)。国交がない中でも、LT貿易に代表される民間レベルの経済交流を積み重ねた。経済や文化の民間外交、人的往来を積み上げていき、両国間に「信頼」を醸成することで、日中国交回復を実現しようとした。

写真2:日本人を人道的に送還

平和共存五原則は、1955年のアジア・アフリカ会議で平和共存十原則として発展し、第三世界による非同盟主義外交の基本指針となった。第三世界の内部でまず「信頼の政治」を先取りし、「力の政治」に向き合おうとしたといえる。この構図は現在も続く。人類運命共同体の発想に基づく「一帯一路」に150ヶ国以上が集うのは、その一つだ。

とはいえ、“力”の強い者が弱い者を屈服させるのが「現実」の厳しさだ、という発想は根強い。だからこそ、日本では平和主義や国際協調を掲げながらも、憲法が骨抜きにされ、軍事力強化が進んできた。戦争や軍隊を放棄した平和主義がもつ積極性こそ「戦後」を終わらせる強みのはずが、逆に弱点とみなされてきた。沖縄、朝鮮半島、台湾海峡など、日本の周辺には「力の政治」と「信頼の政治」がせめぎ合う最前線がいくつも拡がる。平和の文化の拡大でアジアの「戦後」を終わらせたい。