長すぎた「戦後」に向き合う(2)
罪を赦す苦しみを受けとめる:加納莞蕾の戦後

戦後の平和教育といえば、広島・長崎の被爆体験が主に扱われてきた。繰り返してはいけない惨劇であることはいうまでもない。しかし、日本の枠を越えてヒロシマ・ナガサキを捉えるとき、そうした平和学習の限界も浮かび上がる。ヒロシマは軍都でもあり、大久野島では秘密裡に毒ガスさえ製造され、中国戦場で使用された。

島根大学の竹永三男教授から、島根県安来市にある加納美術館には独自の平和教育の可能性が宿っているとの教示を受けていた。そこでは、戦争被害だけでなく、日本が先の戦争でアジア諸国に何をしたのかを踏まえて、複眼的に平和を問い直そうとしていると。先日ようやく、静かな山里に佇む同美術館を訪れることができた。同館は、その名を冠する画家・加納莞蕾(かん らい)(1904-1977)の絵画を展示しているだけではない。平和実践家であり、村長でもあった加納の“戦争と戦後”を取り上げた“平和博物館”でもあった。そのユニークさは、加納莞蕾の思想と実践に由来する。加納の娘でもある加納佳世子名誉館長から、近年、歴史教科書や各種メディアでも莞蕾が取り上げられていると聴いた(写真1)。強く印象に残ったのが、莞蕾の次の言葉だ。「戦後の日本人は苦しまなければならない」。莞蕾の人生を踏まえないと理解しにくい思想だが、彼が向き合った課題が現在を生きる私たちの課題でもあることを教えてくれる。

1904年に島根県布部村(現・安来市)に生まれた加納辰夫(雅号が莞蕾)は、小学校での美術教師の傍ら絵画の創作にも励み、数々の美術展で受賞していた。戦時下の閉塞状況に飽き足らず、新しい美術の可能性を求めて1937年に朝鮮半島に渡った。1938年に従軍画家として中国山西省に入り、そこで日本軍の戦争の残酷さ、中国民衆の被害、土地と共に生きる現地住民の逞しさを目の当たりにする。武力で点と線を占領しても中国民衆の支持を得られていない現実を前にして、現地軍の参謀長に戦争の不毛さを訴えて怒りを買ったこともある。ただ、侵略戦争への疑問を持っていたとはいえ、それ以上の積極性を有していたわけではない。むしろ日本の対外膨脹主義の枠内で創作活動を続けていた。

敗戦直後、無気力に陥った加納を変えたのが、フィリピンから帰国していた海軍少将・古瀬貴季(たけ すえ)との出会いだった。日本軍上層部や政府の責任者の大部分は自身には戦争責任がなく、命令を実行しただけだと訴えていた。他方で古瀬は、フィリピンで特攻攻撃を指揮し、日本人・フィリピン人に多くの死者を出した責任を自らに見出していた。そして、日本の戦争そのものが罪であり、それを反省し、道を改めなくては新しい日本は生まれないと加納に語った。それは、日本の戦争に疑問を感じてはいたものの、戦後鬱屈していた加納の目を開かせるものだった。その後、戦犯指定を受けてフィリピンに召喚された古瀬は、法廷で自身の有罪を認め、1949年3月に死刑判決を受けた。古瀬は自身の助命嘆願を要求しないよう加納に告げていたが、古瀬のように自らの過ちを認めることからしか日本の再出発はないと確信していた加納は、フィリピン大統領に助命嘆願の手紙を直接送り始めた。

とはいえ、その要求は被害国に簡単に受け入れられるものではない。マニラの市街地は日本軍の攻撃で廃墟となり、数々の残虐行為を通じて110万人ものフィリピン人が犠牲となった。大統領自身も、市街戦で妻と三人の子らを殺害された。日本軍の責任者に厳罰を求める市民感情が圧倒的だった。その事実と被害者を前にして、加害国の側から単に戦犯の助命嘆願を求めることは、法にも倫理にも反する。

こうした加納の認識は当時一般的なものだったわけではない。東京裁判をはじめ各国での戦犯裁判が終結し、日本が連合国による占領から独立した1952年に入ると、全国的に戦犯釈放運動が盛んになった。3000万人の署名が集まったとされるが、当時の日本社会は戦犯を「敗戦に伴う受難者」とみなすばかりで、被害者・被害国がどう感じているかはほとんど視野に入っていなかった。

通常の裁判でも戦犯裁判でも被告が罪を認めるかどうかによらず、有罪が認定されれば刑罰を受ける。それでは憎悪が続き、平和に転じる契機にならない。犠牲の大きさに見合う刑罰でもない。だからこそ、古瀬のように罪を認めた者をあえて赦すという非現実的とも思える決断が、逆説的に平和をもたらすと加納は訴えた。赦されざる罪を赦そうとする相手を憎むことはできない。赦しは相手との関係性を全面的に転換させてしまうと。加納の要求はやがて、自らの罪を認めない戦犯をも含めた文字通りの赦しへと発展していく(写真2)。もちろん簡単に赦すことなどできるわけがない。キリノ大統領が赦免の決断に何年も要したように大きな苦悩や葛藤が伴う。だからこそ、赦しを求める側も、それと同じだけの、いやそれ以上の苦しみを経なければならないと加納は考えたのである。

加納の嘆願書がどれほどの影響を与えたかは定かではないが、フィリピンでの死刑囚らの大部分は大統領の特赦で1953年7月に減刑/釈放された。日本社会は喜びに沸いたが、加納は“赦されて良かった”で終わりにしてはならないと警鐘を鳴らした。赦した側の苦しみを赦された側も抱えることで、「戦後」が始まると加納は考えた。村民と共に足元からそれを実践するため、50歳で布部村長となった。在任中に決議した「布部村平和五宣言」(自治、国際親善、世界連邦平和、原水爆禁止、世界児童憲章制定促進)にその取り組みが集約されている。一見すると自治や児童憲章は平和との関係性が見えにくい。加納にとって自治とは、個々人が自らのあり方を問い直し、戦前の国家主義下の自己と決別することをも含んでいたのではないか。そのためには、過去の過ちに向き合う苦しみを避けて通ることができない。そうして主体者となった村民こそ、もっとも弱い存在である児童を守り抜き、児童が生き抜ける平和な自治村を築けると考えた。

前回、新中国で認罪し、赦された戦犯たちが、帰国後に支え合いの社会関係を育むことで「戦後」を作り出そうとした歩みを取り上げた。加納の取り組みと相通ずるところがある。被害国の赦しの意味を受け止めたこうした取り組みが拡がりを持っていれば、「別の戦後」がありえたのではないだろうか。