コラム >> 榎善教


榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その6

中国の戦国春秋時代から始まった倭族の移動は長い年月をかけて、日本列島に至ったと考える。その移動の多くは呉国からなのだろうか? 博多の天神に伝わる由緒には、倭国の始まりは「...

榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その5

前回ではアイヌ民族がトルコ周辺からグレートジャーニの一員としてアジアにやって来たのだと言う事がインド・ヨーロッパ祖語の研究から、かなりの確度で判明している事をお伝えした。...

榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その4

前号ではアイヌ語地名と日本語地名が対になっている例を幾つか例証したが、これにより先住民族のアイヌ人が名付けた地名を日本人が翻訳して、新たな地名として隣接地に命名した事が...

榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その3

地球の氷河期が終わって、暖冬期に入ったのが12000年前であり、それから2000年後の10000年前には、氷河期に比べて海面は140メーターも上昇した。したがって、関東で...

榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その2

中国人と日本人の関係を古典からひも解くと、春秋時代の呉に絞られる。紀元前6世紀には、呉は楚を破った。儒教の古典には呉は夷荻の国なりとある。髪を切って顔や身体に入れ墨すると...

榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問

アイヌ民族と日本民族 その1

長年、日本列島には旧石器時代の遺跡はないとされていたが、それを見事に覆したのが、宮城県の築館町上高森遺跡の60万年前の住居址であり、埼玉県秩父市小鹿坂遺跡から出土した5...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その十

これまでは、日中の人の往来を述べて来ましたが、この回では私の学んだ中国文学の映像化や他社が中国古典文学をベースにして制作した映画やテレビドラマを、私が率先して全世界に向け...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その九

私の日中交流は多くの友好人士に支えられた60年でありましたが、とりわけ忘れられない人達がおります。その中の一人が中国中央電視台の王精波氏であります。彼は1977年に中央電...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その八

アジアにおけるテレビ・アニメーションの配給について忘れられない人達がいます。1997年春、香港でミニモーターの組み立てをしていた近藤宏さんが来社されました。アニメーション...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その七

文化大革命が終息した1977年には、テレビ・アニメ・シリーズの海外配給において、当社は世界の50パーセント*を占めるに至りました。 テレビ・アニメーションのキャラクターに...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その六

長江を遡上して下関(シャークワン)に上陸した時、遠くから一人の老婆が車の我々に向かって怒鳴っていました。中国共産党の人が慌てて駆けて行き止めさせましたが、私は老婆が戦争被...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その五

1965年、中国から民族歌舞団を率いて来日した中国日本友好協会理事の蔡子民氏にお会いして、私は訪中親善代表団を率いて貴国を訪れたいので、中国対外文化交流協会会長の楚図南氏...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その四

1961年春、社会人になった私にはまだ公安の尾行が続いておりました。 ある日、私が旧丸ビルを訪れた折、アメリカの音楽出版のジョージ・フォルスター事務所の名前を発見して驚き...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その三

横浜市立大の中国文学ゼミの授業では、波多野太郎先生と協議の結果、学外の中国人学生は自由に聴講させてあげようと学校当局には内密にして参加してもらいました。 1950年代には...

榎 善教 エノキフイルム社長

私の日中交流史 その二

1950年代に入ると、北海道は米軍のキャノン機関による学生運動弾圧によって、騒々しくなりました。当時、私の大伯父田所哲太郎が農学部長を勤めていた北海道大学の学生自治会が...