榎 善教 国際アジア共同体学会 顧問
アイヌ民族と日本民族 その5

前回ではアイヌ民族がトルコ周辺からグレートジャーニの一員としてアジアにやって来たのだと言う事がインドヨーロッパ祖語の研究から、かなりの確度で判明している事をお伝えした。

それでは、この島国に何千年かの間、アイヌ民族と同居していた日本民族はいつ、どこからやって来たのだろうか?

その謎を解くために、中国の史書で倭人、倭族に関する記述を探して見ると、先ず『史記』には紀元前1100年の第2代成王の条に、倭族の淮国と奄国は周に滅ぼされたとあり、その他の倭の諸国も周や斉に侵略された後呉に滅ぼされ、その呉は越によって、紀元前473年に滅ぼされたとある。

倭族はどうしたであろうか?

南に越があり、西に楚があり、北には燕国があったので、倭族は半島の南端へ亡命した者が多かったのである。幾星霜かして、半島南端の狗邪韓国は倭族の特徴である文身をしていたので、倭族と見られていた。

その正確性が疑わしいとされている『山海経』ではあるが、「倭人は楽海中に百余国に別れて住む」と倭人に関する具体的な記述がある。

遼東半島、朝鮮半島をも含めた広大な地域に倭人が住んでいたと言うのである。しかし、古代の漢民族は他の民族をおしなべて蔑称である『倭人』と呼んだので、倭人のすべてが我々の事を言っているわけではない。倭人は四川省北東部から陝西省南西部にも移住していたらしいので、様々な倭人がいたに違いない。

「漢書」(漢書地理志紀元前108年)に「楽浪の海中には倭人あり、分かれて百余国をなし、歳時を以て来りて献見すという。」

しかし、実際に倭が朝貢したと史書に最初に記録されるのは、後漢朝の光武帝の建武中元2年(西暦57年)が初めての事である。

この年に「倭奴国奉献貢朝賀、光武帝賜以印綬」とある。つまり、北九州にあった倭の奴国の事である。日本はまだ統一国家になっておらず群雄割拠していた。

そして、次に記録されているのが後漢朝の第6代皇帝の安帝の永初元年(西暦107年)である。この時倭国王と記録されたが、これも実際には奴国の事であろう。

さて、初めて倭(やまと)の国が登場するのは魏志倭人伝である。景初2年(西暦238年)に記録されている。曰く、「倭女王遣太夫難升米等、詣郡求詣天子朝献。太守劉夏遣吏将送詣京都」とある。

そして「明帝詔して倭の女王卑弥呼に親魏倭王の称号と金印紫綬を與う」とある。倭国については、この後に、晋書、宋書、南斉書、梁書、隋書、北史、南史と続き、旧唐書(くとうしょ)に至って初めて日出る国だから『日本』と名乗ったとした称号が記述されるのである。