榎 善教 エノキフイルム社長
私の日中交流史 その四

1961年春、社会人になった私にはまだ公安の尾行が続いておりました。

ある日、私が旧丸ビルを訪れた折、アメリカの音楽出版のジョージ・フォルスター事務所の名前を発見して驚きました。そのような業種の会社が丸ビルに入居している事もさる事ながら、著作権管理の会社がアメリカからやって来ている事にも大いに刺激されて、私は直ちに神田三崎町に著作権管理の会社を設立しました。


後輩の前山加奈子君は湖南の湘潭大学の講師になった。
横浜市立大学からは相次いで渡航して、中国で教鞭をとる道を選んだ。

そのビルの同じ階には、ソルゲ事件の尾崎秀実の弟の尾崎秀樹さんの大衆文学研究所、後に直木賞を受賞した胡実沢耕児先生の事務所が並んでいました。そして、間もなくなんと中国文学研究家の竹内好(よしみ)先生が入居して来ました。竹内先生は魯迅研究ですでに有名でしたが、私が大学で研究していた茅循に関する論文でも知られていたので、私は竹内先生と偶然お隣同志になった奇貨を喜びました。

さて、口を糊するために駆け出しの私が先ず手掛けたのは、映画音楽のソノシート化でした。映画会社の試写室に行き、時の映画評論家達、たとえば淀川長治氏や小森和子氏、津村英夫氏、南部僑一郎氏等と共に試写を観ながら、私は映写機にアンペックスと言うポータブルの録音機を接続して、サウンドトラックの全てを収録するのです。そしてテーマソングを抜き取り原盤(レコードをプレスための音源)とするわけです。例えば、プレスリー主演の『プルーハワイ』や美空ひばりの映画主題歌集などもこうして収録して大ヒットとなりました。創業まもなく私の会社は日本フォノシート協会のメンバーになりました。

一方、この頃、日中友好貿易の人達との忘れられない交流がありました。

中でも元残留孤児だった森繁氏は、1957年まで中国解放軍の兵隊だった数奇な運命の人でした。彼は除隊後に戦友だった北京映画製作所の馬所長と共に、『未完の対局』、『天平の甍』、『敦煙』などの日中合作の名画を遺して慌ただしく早逝しました。


同学の塩見敦郎君夫妻は北京第2外国語大学の講師になった。

また、当時、飯田橋の中国通信社の顧問であった持永只仁氏は萬兄弟と共に上海美術映画製作所の創立に関わった生証人でしたので、1930年代から40年代の上海でのアニメ制作の貴童なお話を何度もお聞きしました。

1962年に至って、ようやくLT貿易協定が結ばれました。

廖承志常務委員と高碕達之助氏の頭文字をとってLT貿易と名付けられたのです。

この頃、日本政府の長年の中国語教育の弾圧政策により、貿易実務にも支障を来すほど若者の中国語熟達者がいないので、私の恩師熊野正平先生が霞ヶ関の霞山会館に中国語言研修所を設立しました。そこで、中央官庁の若い役人や商社の若者に中国語の特訓をしたのです。この時になって初めて政府と財界がバックアップしました。

ところで、 1963年3月には、アジアアフリカ作家会議の緊急会議が東京で開催され私も出席しましたが、そこで作家の巴金さんと女優の謝芳さんに会いました。

謝芳さんは、楊沫原作『青春の歌』の主役でしたが、日本でも大好評だった事を伝えました。五四運動時代の女学生役だった彼女の紺の長いドレスとネッカチーフと布靴の愛らしくも健気な姿が忘れられないと言ったら非常に喜んでくれました。