榎 善教 エノキフイルム社長
私の日中交流史 その二

1950年代に入ると、北海道は米軍のキャノン機関による学生運動弾圧によって、騒々しくなりました。当時、私の大伯父田所哲太郎が農学部長を勤めていた北海道大学の学生自治会が札幌市警の白鳥警部射殺容疑で弾圧を受けて、辛くも逃れた何人かの学生が北京に亡命しました。

私の高校の学寮では、夜毎山村工作隊のオルグを受けつつ、私は漢詩、漢文に続いて現代中国語の独学を始めました。やがて、時代の推移を見るにつけ、漢文学ではなく現代中国文学を学びたいと思うようになり、どこに進学しようかと調べたところ、当時、関東では横浜市立大学と早稲田大学にしか講座がない事が分かり驚きました。そして、私は横浜市大に入学しました。


1956年春横浜市立大学文理学部1年

私が選択した中国文学ゼミには、元曲の世界的権威である波多野太郎教授(文学博士)と元北京大学教授の熊野正平教授の他3人の先生がおられました。

波多野先生の元曲の授業は、元の時代の戯曲ですから、その時代の白話(口語)を知るまたとない機会でした。

先生は、この時代はモンゴル人が侵略して来て政権を樹立したのだから、元曲は反帝反封建の文学とも考えられると申しておられました。


横浜市立大学キャンパス入口

先生は半世紀以上に亙って元曲の資料を古書店で探し出して、ご自宅でもある緑風庵にニ万数千冊を収納しておりました。これは、日本の宝であるばかりか、中国の宝でありますから、四散させるわけには行かないので、一時期私がこの緑風庵を預かっておりました。

そんなある時、田園調布に住むさる銀行の頭取が、近所の骨董屋で買い求めた漢代の大きな鼎を持ち込み、先生に鑑定を依頼しました。すると、先生が大いに驚き、これは時代毎に持ち主が記録されている程の、中国の大変な国宝ですと断言されました。


平潟湾

すると、頭取はそれでは中国にお返し下さいとあっさり置いて行ってしまいました。先生は直ちに、友人の郭沫若先生に電話をしたところ、これまた非常に驚かれたそうです。こうして、中国の重要な国宝の一個が無事に中国に戻る事になったのです。

鼎にとっての戦争がやっと終わったのだなと私たちは乾杯しました。私の役得と言えば、しばらくこの鼎と共に寝ていた事です。現在、この鼎は故宮博物館に展示されているはずです。


平潟湾沿いに走るモノレールで医学部へ