地球の氷河期が終わって、暖冬期に入ったのが12000年前であり、それから2000年後の10000年前には、氷河期に比べて海面は140メーターも上昇した。したがって、関東では八王子、赤城山の山裾まで海になった。この時代は世界中の平野部の多くが水没した事だろう。「ノアの方舟」伝説もこの暖冬期の海面上昇に由来しているのだろう。
さて、水没したかどうか定かではないが、滝桜で有名な三春町の近くに船引町がある。
町の由来として、昔、坂上田村麻呂が東征した折、戦死者を船に乗せてやって来たので船引町と言うと。これは奇妙だと思ったのは日本の河川は東西に流れていて、南北には流れていない。北から南に船でやって来たと言うのはおかしい。そこで、船引をFUNE- HIKI→PUNE-PIKeWeと考え、岬の石原と翻訳すると、案の定、福島県立船引高校の所在地が船引町字石崎とある。しかし、当初考えに至らなかったが、実は古代にはこの船引町まで海だったとすると、坂上田村麻呂の伝説は正しかったのかも知れない。
さて、水没には関係ないが、中禅寺湖の湖畔には二荒神社(ふたあら)がある。これはアイヌ語のPUTARA=火口湖がHUTARAになり、二荒になったのである。そして、次に二荒を音読みすると「にこう」になるので日光としたらしい。
古代、男体山も噴煙を上げていたので、信仰の対象となっていた。
宇都宮と言う町に小高い丘があり、そこから男体山を拝んでいたらしい。UTSU-NO-MI-YAとは遠くから拝む丘の意味である。
さて、前号に続くがこの時代の関東の住民はアイヌ民族のみだったと考えられるのは、もともと八王子、青梅、秩父周辺の地名がアイヌ語のみだからである。
保谷と田無も対をなしている。HO-YAのHOはもともとPOで小さいと言う意味である。YAは谷ではなくて丘である。
しかし、TANASHIは高くなっているところと言うアイヌ語である。私は初めTANASHIは田が無い小さな丘と考えたが、実はアイヌ語だった。たまたま都合の良いアイヌ語があったので、保谷の対として田無を使ったのかも知れない。
南に下って小石川と小日向も対をなしていると思われる。
小石川は日本語で、KO-PI-NATAのKOは指示詞でそこにと言った意味がある。PIは石である。NATAは川である。
さて、大田区の池上本門寺の森を地元の人は東閑森と言う。このTOUは池、沼を意味して、KAは上、あるいは崖を意味する。KA-Nは丘があると言う意味になる。つまりTOU-KA-N森とは池の上の森となる。明らかに隣接する池上と対をなしているのである。
東京の人は二子玉川と言う変わった地名をご存知かも知れないが、二子とは何だろうと思いませんか? これは元の言葉はPUT-TACと言うアイヌ語なのである。それがP音が苦手の日本人によりFUT-TACとなり、FUTACとなった。語尾のOは縄文時代の語尾変化で、多くの単語にOが付いたのである。さて、その意味は、なんと川尻の玉石である。つまり、玉川なのである。通常、アイヌ語と日本語の対をなす地名を近隣に名付けたものだが、これは上がアイヌ語で下が日本語と言う珍しい構成になっている。
似たような例がこの玉川の上流の府中市にある。分倍河原と言う地名があり、昔、長者様が住民に梅を分け与えた事から分梅町といったと伝えられている。事実、分梅と言う地名もある。
しかし、この分倍であるが、PET-PAIで単に川岸となる。つまり川岸を意味するアイヌ語と日本語を重ねた地名となる事が分かる。(続く)
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