榎 善教 エノキフイルム社長
私の日中交流史 その六

長江を遡上して下関(シャークワン)に上陸した時、遠くから一人の老婆が車の我々に向かって怒鳴っていました。中国共産党の人が慌てて駆けて行き止めさせましたが、私は老婆が戦争被害者で悲痛の思いで叫んでいるのだと直ぐに分りました。そうした痛烈な思い出があったので、日本の先進的な電子技術者を北京に派遣する事に協力したのです。

技術者達の出張は2、3ヶ月の予定でしたが、なんと1ヶ年を要したのです。

中小企業のトップ技術者が10名抜けるのは実に大変な事でした。

親会社は革新系の代表者に率いられているものの、子会社に対しては必ずしも協力的ではありません。こうした理不尽な差別に私は猛然と闘いました。


MIPの当社ブース 於カンヌ1981年4月

この間の資金繰りをその系列会社の経理担当と私の2人で切り盛りしたのですが、親会社や銀行と激しくやりあったので、いつの間にかサムライエノキなるあだ名を頂戴してしまいました。さて、1966年から10年もの間、文化大革命のため日中間の交流が非常に難しく、いわば我慢の時でした。当時、大伯父の大岩勇は住友系の役員を終えた後、晩年、東京都の消防庁長官を経て、東京都社会保険協会会長の要職にありましたが、相談に乗るから顔を出せと言って来り、高校の先輩である本名武先生は当時国務大臣(北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官)でしたが、親父の幼馴染みと言う事もあって親切にも手紙をくれたのに行きませんでした。今になって、皆さんのご心配、ご親切に感謝の念を禁じ得ません。この頃、産経新聞社の社長交代に絡んで内紛があり、なんと数百名もの退職者が出ました。経団連から次期社長として鹿内宏氏が送り込まれて来たので、前田久吉氏が東京タワーの社長に転出した事が原因でした。

ある日、産経新聞の記者である友人から男を一人預かってくれと依頼されて、縁あって退職者の筆頭であるO氏が当社にやって来ました。O氏は学徒動員で狩り出された言わば“やっとこ少尉" (大学生が招集されたら直ちに少尉になるのだが、未熟な兵隊だからこうした呼び名になった)で、ニューギニアの数少ない生き残りでした。


アジアMIPの当社ブース於香港1996年12月

彼の人脈で、終戦の召勅で有名な迫水久常郵政大臣や終戦の午前会議の加屋興宜先生を知りました。実は彼は山本五十六元帥の又従兄弟で、電車の車両メーカーの社長の御曹司でした。一年後にトップメーカーであるサッシ会社の常務に就任して、当社を去る際に君を新設されるテレビ局に推薦しておいたよと言うので、びっくりした私は慌てて断りに行きましたが、そのご厚意だけは嬉しかったものです。不思議なもので、この事がテレビ局と付き合うきっかけになりました。

同じ1966年には、兼任で録音会社の株式会社オムニバスプロモーションの代表取締役を引き受けたり、日本アニメーション株式会社の専務取締役になったりと、3社かけ持ちで夜も昼もないと言った状態でした。

事業的には、主としてフランス映画やアメリカ映画のテレビ放映権の輸入、そして日本のテレビアニメーションシリーズの輸出を行っていました。

70年代に入ると、アニメーションシリーズの輸出業務が急成長しましたが、残念ながら中国はまだカーテンの向こうでした。77年に至ってやっと文革が終息しましたので、満を持していた私は勇躍北京に飛びました。