中国人と日本人の関係を古典からひも解くと、春秋時代の呉に絞られる。紀元前6世紀には、呉は楚を破った。儒教の古典には呉は夷荻の国なりとある。髪を切って顔や身体に入れ墨するとある。
大宰府天満宮に伝来している「翰苑」にも倭人は「顔や身体に入れ墨して、太伯(呉の初代)の苗と称す」とある。
以上によると、極論だが我々は呉の民で中国から渡来して来た可能性がある。
呉の太伯の時代は紀元前12世紀といわれているので、その後に呉の民が徐々に日本列島にやって来たものと思われる。アイヌ民族は狩猟民族であるから、最盛期ですから日本列島全体で20万人位だったろうと言われている。そこへ大量の移民が新天地を求めてやって来たわけだから、各地で摩擦があった事だろう。しかし、アイヌ民族は徐々に山岳地や辺境の地に追いやられて行った。
こうして、アイヌ民族が1萬数千年もの間住み慣れた土地を捨てて辺境の地域に避難して行った事を思うと、少数民族の悲哀が理解出来る。
さて、日本全土にアイヌ民族が命名した地名があるが、すべてが生活に密着した極めて優れた地名と言えるでしょう。
全てに先駆けて大事なのは飲み水であり食料であるから、水が豊富で植物も豊かに繁茂していて、動物も沢山生息している土地の地名が多いと言う事になる。
幾つかの例を挙げてみよう。
山形県の尾花沢市は元尾羽沢と言った。江戸時代に紅花が取れるようになったために、羽を花に変えたという。隣町の大石田がアイヌ語である。大石田はOO-ISHI-TAであり、OOが沢、ISHIが尾羽の事、TAはあるところの意味である。昔、矢の後ろにつける猛禽類の羽を採取するところが決まっていたのである。以上のごとく、日本語とアイヌ語が、隣接する地域に並列している事が多い。二つの民族に対するサービスであろうと思う。
宮城県には神割岬と言う観光地がある。岩が二つに割れて、そこから波が飛び込んで来るという。すぐ近くに、牛落としなる崖があり、長年使役していた牛が年を取って使えなくなった時、その崖からつき落としたのでその名がついたとされている。
お百姓は家族同様に可愛がった牛にそんな残酷の事をするわけがない。つまり、何かおかしい。牛落としを分解してみると、US-O-TU-SYrとなり、湾に二つの断崖があるの意味になる。牛落としがアイヌ語なのだ。妙な文字を当てたものである。
黄牛内と言う不思議な地名がある。KIは葦、茅の事であり、USIは沢山取れるところの意味である。NAIは川であるから、茅が沢山取れる川の意味のアイヌ語である。
この川を遡上して行くと、鬼茅川とある。つまりこれが日本語訳となる。因みに鬼は単に大きなという意味である。
埼玉県と東京都の間を流れる荒川の、埼玉県側が川口市であり、東京都側が赤羽と言う事は良く知られておりますが、川口が日本語訳で赤羽がアイヌ語であります。AKAは水、飲み水の事で荒川(ARAは美しいの意味)まだ清流だったころには飲み水にもしていた事でしょう。そして、BANE=PANEは口の意味です。すなわち河口の意味になります。河口の意味のPANEDAが羽田です。多摩川の河口だからです。さて、東京で最も有名な川と言えば墨田川です。このSUMITAは押し上げるの意味があります。海風が砂を押し上げる事をいいました。そして、今や東京スカイツリーで一大観光地になった押上駅は最近東京スカイツリー駅に改名されてしまいましたが、元々の地名の押上が出来たのです。SUMITAはアイヌ語、押上は日本語訳なのです。
東京都の西部でも今から1万年前の暖冬期には海でしたから、八王子、秩父の山すそが海岸だったのです。ですから、あたりはアイヌ語地名の宝庫です。
2言語が並列しているところを探すと、拝島線に牛浜があります。USIは入り江、湾を意味するので、浜を重ねた地名と言う事になる。この隣に、福生があります。これの元々の発音はPUT-SAであり、PUTは川の口を意味します。SAは浜であるから、川口の浜と言う事になり、おそらく牛浜に対比していると思われる。
また。西部池袋線には、清瀬と久留米(今は東久留米)がある。清瀬は日本語で、文字通り清らかな流れである。一方、久留米はアイヌ語で、KURUは神の事で、そこから転意して清らかの意味になる。MEは自噴する泉の事だから、まさしく清瀬であります。
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