榎 善教 エノキフイルム社長
私の日中交流史 その九

私の日中交流は多くの友好人士に支えられた60年でありましたが、とりわけ忘れられない人達がおります。その中の一人が中国中央電視台の王精波氏であります。彼は1977年に中央電視台に勤務していて、私の番組売り込みの応対をしてくれました。当時は外国からやって来る配給業者など殆どなく、はなはだ迷惑な客だったでしょう。なにしろ、公安の壁には『外国人はスパイと思え!』とポスターが貼ってあった時代です。しかし、そんな時代にも彼は愛想よく応対してくれました。


エノキフィルムUSAの二人と私(右端)

80年代に入って間もなくだったと思いますが、日本の某大手広告代理店の社長が日本に来るなら引き受けると王さんに約束したとの事で、真に受けた王さんは中央電視台を辞めてしまいました。しかし、日本から一向に連絡がないと彼が困っている姿を見て、私は日本に帰って直ちに外務省におもむき交渉、大喧嘩の末に彼の入国許可を取ってあげました。

王さんは来日して間もなく、中央電視台の大河ドラマのビデオの販売をしたいと相談がありましたので、私の親友でビデオの販売では日本一と言われた営業マンの今は亡き小長井徳夫氏を紹介しました。それから、王小長井コンビは『三国演義』、『水滸伝』、『雍正王朝』などの大河ドラマを次々にビデオボックスにして大量販売に成功しました。

この二人の功績は中国文化の海外普及に功績ありと、中国政府に称賛されて小長井夫妻は北京に招待され表彰されました。


懐かしの長安大路

懐かしいもう一人はチータン(タマゴちゃんあだ名)です。赤ん坊のチータンは山西省の田んぼのあぜ道に一人座ってにこにこしていたそうです。

そこに通りかかった日本軍の小隊がチータンのあまりの可愛さに肩車をして、親を尋ね歩きましたが見つからなかったそうです。

すると、部隊長が私の養子にするからと言い、除隊する隊員に託して日本に連れて来ました。しかし、間もなく終戦となり、部隊長は責任をとって現地で自害してしまいました。その際、帰国する部下にお前がチータンを育ててやってくれと遺言したのです。その部下は故郷の静岡に帰国後、約束通りチータンを養育し、静岡県立掛川高校から立教大学に進学させました。


思い出の王府井

そのころ、日本華僑総会は在日の知識青年に対して、祖国の建設に協力しようと呼びかけました。チータンは矢も楯もたまらず、その呼びかけに応えて、天津行きの船に乗りました。しかし、彼はミッションスクールの立教大学での教育が災いしたのか、10年もの年月を思想矯正所で過ごしました。やっとの事で社会に出た彼は大学の日本語の先生になりました。

そして、帰国以来30数年の後、日本の育ての親に会える事になったのです。たまたま、彼のご両親は私の自宅の近所に住んでおられたので、私が案内する事になりました。お父上は脳溢血の後遺症で口がきけないようでしたが、二人は滂沱の涙でただ抱き合っておりました。日中間の悲劇から親子の情愛が生まれたのでした。