長すぎた「戦後」に向き合う(1)
平和を作り出そうとした 戦争経験者と「伴走」する

私たちは当たり前のように「戦後」という枠組で “いま”を捉えている。これは奇妙なことではないだろうか。

対中国15年戦争が終わってからまもなく80年にもなる。新中国の建国も「あの戦争」が終わったことの帰結の一つだが、そこからも75周年を迎えた。人間に喩えるなら、平均寿命にあたる年数が過ぎたことになる。それでもまだ、「戦後」という言葉が指すのは、ベトナム戦争の「後」でも、湾岸戦争の「後」でもない。「もはや戦後ではない」と日本政府が宣言したのは1956年、70年近く前のことだ。しかし現実には、「終わらない戦後」を私たちは生きている。あの戦争を直接経験した世代はまもなくこの世から居なくなってしまう。それでも戦後が「終わらない」状況が続くなら、当事者は私たちだ。

もちろん、社会や経済の戦後復興は侵略国、被侵略国の双方で終えている。韓国や中国等との国交回復で一定の戦後処理も行われた。だから、戦後が「終わらない」というより「始まっていない」という方が適切かもしれない。戦闘行為が終結しても、一夜にして平和が訪れるようなことはない。信頼や親しみが徹底的に破壊されれば、憎しみと苦悩に満ちた状況が生まれる。新たに平和と共生を作り出していくには、何十年もかけて努力を重ねていく必要があるだろう。そうした取り組みは「始まって」いたのだろうか。そもそも、あの戦争でどんな過ちを犯し、そこから決別し、二度と繰り返さないために、どのような努力が積み重ねてこられただろうか。

これまで出来ていなかったのなら、今からでも「始めて」いこう。80年におよぶ長すぎた「戦後」を、いま私たちの世代から「終わらせる」ために、自分の居る場から平和を作り出していこう。とはいえ、世代を越えて引き継がれる社会的課題に、これまでとは異なる形でアプローチするのは簡単ではない。その手がかりとして、この80年の中で微かに存在してはいたが、排除され、見過ごされ、評価されてこなかった動きや新しい取り組みに注目しよう。今ここから、平和へと転じていく実践を「始める」ための連載としたい。

*    *    *

今回取り上げるのは、難波靖直(やす ただ)(1921年島根県生まれ)という戦争体験者の平和実践である。一般に、日本の軍隊経験者は戦時中のことをあまり語らず、過去と明確に決別する人も少ない。戦後、反戦平和運動に取り組んだ元兵士らであっても、戦争への憎しみや平和の大切さなど一般論を語ることはあっても、被害者を視野に入れた自身の過ちに触れることは稀だ。難波とその仲間たちは、自らの過ちを市民にむけて語り、書き残して過去と決別しようとしたが、それにとどまらない。戦争とは対極の平和的で対等な社会関係を足元から作り出すための試行錯誤を重ねた。戦時中と同じことをしていては、また戦争を繰り返しかねないと自戒していたからである(写真1)。

1942年8月から中国湖北省で従軍した難波は、何ら特別なところのない末端兵士だった。体格に恵まれず、戦局が悪化しなければ召集されない補充要員で、「戦力」としては期待されていなかった。戦地では補給や武器の運搬などに酷使され、事務仕事で能力を発揮する程度だった。他方、シベリア抑留を経て新中国の戦犯として収容された後の反省のあり方と、帰国後の平和実践においては、地道ながら非凡な実践を続けた。

2008年に放映されたNHKのドキュメンタリー番組『認罪』のなかで、難波は遺言のような印象的な言葉を残している(概要)。

自分たちの遺灰は中国の撫順に撒いてほしい。そして、これから何十年か先に日本と中国との間、あるいは地上から戦争がなくなって本当の平和が訪れたとき、若い人たちに迎えにきてもらい、そこの土を故郷に持ち帰って埋めてほしい。それを若い人にお願いしているが、果たしてどうなるか。「夢物語」でございます。

中国の撫順とは、彼が新中国で戦犯となった際に収容された地である。そこで戦時中の行為を反省する時間を過ごし、過去と徹底して決別する機会を得た。末端兵士に戦争責任などないと考えていた難波も、6年を経て、侵略戦争を遂行する組織を担った責任を自覚するようになった。そうなって初めて、赦しがたい過ちを赦そうとする中国の人々の深い葛藤を感じ取った。後半生は「まっとうな人の子」として生きることで、それに応えようと考えた。

帰国後の難波は、撫順で得た戦争責任認識をもとに、山陰地域に暮らす戦犯仲間とともに平和を作り出すための実践を模索した。重視したのは、侵略戦争を可能にした社会の仕組みや人間関係の次元から変え「始める」ことだった。敗戦までは人間を国や軍隊の道具や手段とみなす思想が教え込まれたことで、他国の人々はもちろん自軍の兵士をも残虐な目に遭わせた。そこで、一人一人の生や思いを何より大切にし、相互に助け合う関係性(物質的にも精神的にも)を日々作り出していくことで、戦争を推進した社会のあり方を足元から転換しようとした。保守的な山陰で反戦平和や日中友好を掲げると、孤立しがちである。過去の反省を平和創出へと転換し、戦後を生み出し「始める」には長い時間が必要だ。いたわり合い、励まし合い、家族ぐるみで支え合う特徴的な実践を晩年まで続けた。没後は撫順に遺灰を撒いてほしいという難波の願いは、最晩年まで平和創出に生き抜いたことを、赦しを選んだ中国の人々に「報告」するためでもあっただろう(写真2)。

ただ、この世から戦争がなくなるのを「夢物語」と呼んでいるように、撫順の土が島根に戻る日がすぐには訪れないことも見通していた。難波の願いは、「その日」を迎えるために、それぞれの世代が平和を作り出そうとする営みを“続ける”ことにあったのではないか。バトンを託されたつもりであっても、「その日」にむけて今ここから平和と格闘する日々の先に、いつしか時代に向き合う主体者としての自己を見出すだろう、と。難波もそうして中国の戦争被害者からバトンを受け取っていた。その「継走/伴走」のリレーが続くことを願っていたのではないか。

本号が刊行される頃、難波の没後10周年を迎える。一人一人の暮らしや思いを犠牲にせず、最優先にする平和の文化を“今ここ”から作り出そうとし続ける限り、私たちはこれからも難波たち平和実践者とともに「伴走」し続けていける。