国交回復後の50年を生きなおす(3)
戦争被害者は戦後をどう生きたか

国交回復によって戦争被害者とも向き合おうとすればできるようになった。そうした動きはどれくらいあっただろうか。これは無理筋な話ではない。日本社会には、原爆や空襲の被害者に対する関心や平和教育が一定程度存在してきた。他方で、80年代末以降に戦後補償裁判などで戦争被害調査が行われた僅かな例を除けば、中国での被害実態を知り、平和への誓いを日中双方で共有する情況が十分拓かれてきたとは言い難い。ましてや、戦争被害者が一人の生活者としてどのように戦後を歩んできたのかを知る――そうした責任意識はほとんど拡がりを持たなかった。国交回復50年後の被害者の「いま」を知るために、山西省繁峙県に暮らす孟生保さん(83歳)一家の戦後に耳を傾けたい。

 2019年秋、省北部の地方小都市に生保さんを訪ねた。老朽化の進む集合住宅の暗い一室で、家族とともに静かに待っていた。生保さんは戦後に日本人に直接会うのは初めてで、緊張している様子だった。言葉数も少なく、小声で絞り出すように話した。家族の話では、日本人が来訪すると考えるだけで、過去の苦しみや屈辱を思い出し、眠れなかったという。1939年生まれの生保さんは、戦争末期だった幼少期に日本人から何度も暴行を受けた。2歳で腕を銃剣で刺され、6歳で頭を鉄棒で殴られた。頭部の鈍痛や腕の障害は戦後の生活や仕事に支障を来し、今も後遺症に苦しむ。傷痕を見せ、その犯罪人を探してほしいと語った時、悔し涙が溢れた。

加害者の一人は新中国の太原戦犯管理所に収容された。私たちはその戦犯に何度もインタビューしたが、生保さんを暴行した事実は語っていない。日常的に行われていた無数の暴力の一つだったのだろう。二度とこんなことが起きないようにしてほしい、と手を握りしめて発した言葉は、受けとめきれない重さがあった。傍にいた彼の妻もほとんど話さなかったが、彼女の頭にも生々しい傷痕が残るのを見せてくれた。

 今年再び生保さんから話を聴く機会を得た。「刺されて死ななかった人でも、その傷は治らない」と話し出した後、「日本軍人の息子や孫はまた中国に侵略しに来ようとしているのか」と問いかけた。多くの日本人からすれば、過剰な心配だと感じられるかもしれないが、生保さんは本当に恐怖を感じている。その非対称性こそ、この50年間に埋めておくべき溝だったと思えてならない。

生保さんをより苦しめてきたのは、日本軍に虐殺された父・孟蘭芝さんのことだった。村長だった蘭芝さんは、日本軍による暴行、略奪、女性蹂躙から智慧を絞った抵抗・非協力を続け、村民から支持されていた。逆に、対日協力者の住民からは目の敵にされていた。共産党軍による抗日運動の地下拠点を支えていたため、1941年に日本軍に捕らえられた。生保さんがまだ2歳の頃である。蘭芝さんは1ヶ月以上も拷問を受けたが口を割らなかった。その凄惨さは、片眼をくりぬかれ、最後に公開処刑の場で斬首されたことを記せば十分だろう。本当の被害者とは両親の世代だと生保さんは言う。斬首した人物は、2歳の生保さんの細い腕も刺した。

 処刑の直前、日本軍人がその様子を写真に撮った。蘭芝さんの妻は夫の名誉のためその写真を取り返さなければと考えた。1946年、まだ7歳だった生保さんはその写真を取り戻すよう母から聞かされた。自分にはなぜ父がいないのかと感じていた生保さんは、写真でも顔を見たいと思った。父がどのように生き、なぜ殺されなければならなかったのかを探求する半生が始まる。

まだ中学生だった1950年代前半から、当時を知る地元の人々から話を聴き始めた。人口600人の狭い村の人間関係のなかで、事実を探り当てるのは容易ではなかった。卒業後の56年に太原市の鉄路局に就職した。太原管理所に日本人戦犯が収容されていると知り、父を殺害した軍人が含まれているか知人を通じて尋ねた。加害者の一人が収容されていたが、処刑を免れたと知り、大いに不満だった。他の軍人は帰国しており、写真を探すことは難しくなったと感じた。その後の調査は、父やその戦友、地域の被害事実を知るための段階へと移った。調査のなかで遺族らが犠牲者の最後を知りたがっていることを知り、遺骨や情報を遺族に届けるようになった。

 1960年代初めに父の様子を知る人物を訪ねて内モンゴルへ出掛けたのを皮切りに、中国各地を訪ね回った。戦死した従兄弟の所在を探すため、63年以降河北省各地を尋ね歩いた。98年まで5回にわたって調べたが、今も故郷の墓に戻れていない。66年に上海、68年と71年には広州にも出掛けた。尋ね人が見つからず、広州には2017年まで何度も訪れている。1979年には内モンゴルのフフホト、80年には北京にも出掛けた。その中で、父が誇るべき抵抗をしていたが故に虐殺されたことを知った。83年には山西省の公文書館にある戦犯関連史料を探す機会を得たが、写真は見つからなかった。最後の望みだっただけに消沈し、日本に連れ去られるような心境だった。

 調査を繰り返していた60~70年代は、経済的にも社会的にも困難な時期だった。処刑された父の遺体を引き取るために日本軍に金品を要求され、そのためにした借金の返済は70年代まで続いた。生活を犠牲にして調査を続ける日々を周囲から嘲笑され、食糧を借りようとしても次第に協力してくれなくなった。子どもを育てる余裕もなく、娘の一人は生後すぐ病死した。職場を休んで出掛けることに上司は不満で、遅くまで残業した。収入の高い仕事に就ける身体でもなかった。

 国交回復後は山西省でも友好気運が高まり、当時の日本は良いこともしたと口にする住民もいた。しかし、まだ戦争被害の後遺症を抱えている住民も多く、被害の回復要求が高まった。繁峙県にも80年代に入ると旧日本軍人が戦友の慰霊や懐古のため姿を見せるようになったが、被害者に面会に来る者はいなかった。罪を認めない人とは交流したくもなかった。70歳を過ぎると、孫の武凌宇さんが調査を手伝い、引き継ぐようになったことは次回記したい。

 戦争が終わっても被害者の人生は持続的に破壊され、苦しみは戦後も続いた。無念さは遺族自身が事実を明らかにする中で晴らすしかなかった。国交回復後の日本社会が少しでも被害者の戦後に向き合えていたなら、どのような50年になっていただろうか。