日本軍による侵略を経験した中国の民衆は、長い「戦後」を経て、今どんな思いで過ごしているのだろうか。
2023年12月、浙江省桐郷市で地元の戦史を掘り起こす調査研究を続けている沈涛さん(30歳)の案内で、戦争体験者から話を聴くことができた。王福金さん(女性・1926年4月生まれ)、沈美和さん(女性・1936年2月生まれ)、沈金泉さん(男性・1930年12月生まれ)の三人で、もっとも若くても90歳近い。時間の経過を感じさせる。日本軍が同地に侵入してきた1937年末には、それぞれ11歳、1歳、6歳だった。
彼女らの体験を理解する上で必要となる歴史的背景に簡潔に触れておこう。
1937年12月に南京大虐殺を引き起こした日本軍は、上海から南京へと進軍する途上、彼らの暮らす桐郷市をも陥落させていた。行軍中も各地で虐殺などの蛮行が行われたが、同市での戦争体験として特に記憶されているのは、この時期より少し後に起きた事件である。
1943年1月に53人の住民や軍関係者が連行され、逃げ延びた1人を除いて虐殺された。遺体の半数は顔の判別もできないほどだった。沈涛さんは、地元にとっては南京大虐殺と同様の「忘れ難い記憶」だと語る。今回話を聞いた3人は、日本軍の動きが鈍るようになった戦争末期の記憶を有している世代である。
主な聴き手となった中村晃市(仮名)は、中国の大学で日本語を教えている。彼は「満洲国」や租借地だった大連における植民地教育の実態を研究する大学院生でもある。戦争被害者に直接面会して経験を聴き取るのは初めてだった。日本と中国との戦中、戦後の複雑な関係も念頭にあり、出会ったばかりの日本人男性にどこまで話してくれるのか不安を感じていた。自然体で場を和ませつつ、丁寧に向き合うところに、彼の真摯さが表れていた。
聴き取りを始めると、体験者たちの年齢の問題もあって、質問に答えるというより、当事者たちが話したい、伝えたい内容が中心になった。どんな経験をしたのか事実関係にできるだけ迫りつつ、同時に、彼らが繰り返し言及する出来事や、そこに込められる感情の重みについても考える必要がある――その場にいた私たちがそう感じるようになるのに時間は掛からなかった。通訳を兼ねて参加した民俗学者の胡艶紅(華東師範大学教員)は、民衆の経験は地方農村固有の時間の流れのなかで捉えられているという示唆を与えてくれた。
* * *
王福金さんは1937年に11歳だったため、侵入してきた日本軍から逃れた経験をはっきり記憶していた(写真1)。女性はさらわれると聞いていたため、炭で顔を黒く塗り、近くの竹林に逃げた。その下を流れる川に入って隠れたが、泳げないので溺れそうになった。そこに銃剣を持った日本兵が草むらを突き刺しながら、隠れていないか探しにやってきた。その瞬間がもっとも怖かったと、福金さんは繰り返し強調した。「日本人がいちばん悪い」と語る表情には厳しさが宿る。その後も繰り返し自宅に日本軍がやってきては食糧を奪いに来たため、草の根っこや木の皮を食べる苦しい生活が続いたという。その他のことは、質問しても少し語る程度だった。中村は恐る恐る“日本人が来てこんな話を聞くことをどう思うか”と尋ねた。「日本兵はもう死んで、いない」「今の世代の人なら関係ない」という淡白な答えが返ってきた。80年以上前に経験した恐ろしさを生々しく語る一方で、戦後世代の日本人を自身の経験から切り離せる冷静さを持っていた。
もっとも若い沈美和さんは日本敗戦時にまだ9歳(写真2)。戦時中についての語りは、家族や周囲から聞いた話との境目がはっきりしないところもある。戦後の体験の記憶が具体的なのと好対照だ。それでも、戦時中の経験については次々と話が飛び出す。爆弾が落とされて道路沿いの家が焼かれた、外出中に日本兵から逃げのびた、食糧がいつも不足していた……。ただ、その時、何を感じていたのかはあまり話さない。不思議に感じた中村が、苦しさや悔しさはなかったかと質問すると、「余りある恨み、憎しみがあった」と別人のようにきっぱり語った。中村は彼女にも日本人が来訪したことについて聞いたところ、今度は満面の笑みで「とても嬉しい」と答えた。戦後の長い時間のなかで、削がれていくものと、奥深く残るものとがある複雑さを、私たちは認識しておく必要がある。
男性の沈金泉さんは自ら地主階層だったと語る通り、恵まれた家庭に育った(写真3)。だからこそ、日本軍やその手先となって動く現地軍(偽軍)、さらには国民政府軍から、食糧「調達」の対象としてたえず狙われた。鶏や生卵を奪うため日本人がやってくると、まだ子供だった沈さんはいつも隠れた。隠れているときは「とても怖かった」と語るものの、感情の抑揚はほとんど見せない。「日本人はすごく悪かった」「偽軍も悪かった」と語る時も、突き放すような物言いだ。食べ物が足りず、いつもお腹が空いていたのは他の2人と共通していた。
ただ、地主家庭だっただけに、彼だけは私塾に通ったり、家庭教師の下で勉強した経験を持つ。国共内戦期には学校にも通った。勉強するのが楽しかったと話す時には、明るい表情になった。読み書きができる人が少ない時代で、新中国になってからは、村などで国語教師を務めた。「楽しい仕事だった」と振り返る時はさらに頬が緩んだ。中村が最後に「80年後の今、日本に対してどんな思いがあるか」と聞くと、「何もない。日本人が来るのは歓迎する。特別な思いはない」と素っ気なく答えた。
後日、3人の語りについて中村と振り返った。戦争被害者たちが経験した多様な現実や複雑な感情を、彼は複雑なまま受け止めようとしていた。ひとくちに中国民衆の戦争体験といっても、実際に当事者から話を聞くと、同じ地域で暮らしながらも年齢、性別、経済力などによってその経験は多様だった。<侵略した日本>と<蹂躙された中国民衆>というありきたりの構図には収まらない複雑な現実を前にして、安直に感情移入することの軽薄さにも気付かされた。子や孫の世代を含めて経験したであろう経済的、心理的な影響は、時間を掛けて、信頼関係を築いていくなかでしか見えないのではないかと自省的に語った。中村は、彼/彼女らの「戦後」と今に触れて、自分が生まれ育った戦後日本社会が何を捉え損なったのかを見出していた。
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