中国では近年、戦史研究が活発に進められている。戦闘だけでなく、戦時下の経済や社会、文化の実態についても若手研究者の関心が集まっている。過去の連載で取り上げた武凌宇もその一人だ。10代の頃から在野研究者として、自身の曾祖父や祖父をはじめとする地域社会の戦争被害を地道に解明してきた。現在は故郷の山西省を離れ、吉林省盤石(パン シー)市にある研究機関に勤務している(写真1)。実証的な歴史研究を重視する中国社会の姿勢が表れている。日本では歴史研究とりわけ戦争期の研究は、「役に立たない」「暗い」「非難に晒される」と敬遠され、若い世代が激減しているのと対照的だ。
盤石市は、抗日戦争史において特別な地である。1931年9月の「満州事変」後、短期間で中国東北部全域が日本軍によって軍事占領された。それほど戦力に大きな差がある中で、日本の侵略に抵抗する側は遊撃戦(ゲリラ戦)を採用するほかなかった。中国共産党が最初に遊撃戦根拠地を築いたのが、盤石市の険しい山間部にある紅石(ホン シー)砬子(ラー ズ)の地だった。
軍と軍が対峙する正規戦とは違い、ゲリラ部隊は神出鬼没でダメージを与えていく。実際にそうした攻撃が続くことで日本軍の体力は次第に消耗し、軍政は揺らいでいった。しかし、当時の日本軍将校も、戦後の日本の歴史研究もそのインパクトをほとんど視野に入れていない。
中国でも似た事情がある。初期のゲリラ戦は壊滅的被害を受けることもあった中で、どのようにして圧倒的な戦力差を撥ね返してきたのか、史実に基づく具体的な研究は希薄だった。これには、ゲリラ部隊が地下に潜った秘密の存在であり、記録に残しにくい歴史だった側面も影響している。部隊がどこに、どれくらいいて、誰がリーダーなのかは、敵だけでなく味方にも極力秘匿することで効果を挙げた。命令や作戦内容もできるだけ文字や史料に残さなかった。それなら「足」で稼ぐしかない。実際に遊撃戦に従事していた人物、その遺族、関係者を探しだし、遊撃戦やそれを支えた根拠地の実情を聴き取る。それは、武凌宇が得意とする手法だった。山西省での被害調査の経験を存分に活かして、多くの関係者を新たに捜し当てた。
とはいえ、それは容易ではなかった。「根拠地やその事情を知る人を訪ね回るなか、時には山中で人家が見つからず、木の枝で服が破れ、顔が傷だらけになることもあった。春には雪解け水の泥濘みに足を取られ、夏は虫や蚊に悩まされた。秋には背丈より高く生えるトウモロコシ畑をかき分けて烈士の墓地を探し、冬は太ももの高さまで雪が降り積もる山中で跡地を探した」(写真2)。
こうした苦労を重ね、遊撃戦を成功させた民衆理性に一歩ずつ近づいた。日本側の戦争記録には、作戦内容があっという間に中国ゲリラ側に筒抜けになって手を焼いたという記述が散見される。力で締め付けても効果に乏しい。情報戦には危険が伴うなかで、どのようにして日本軍を消耗させたのか。武はゲリラ部隊の子孫から話を聴くなかで、盤石市に駐留していた日本軍の通訳をさせられていた中国人が、暮らしの中で接点のあった地元の民衆に情報を提供していた事実を突き止めた。生活レベルでは、中国民衆同士が日本軍への抵抗について意気投合していたのである。
埋もれていた史実に辿り着いた喜びは、満足に食事も摂れない調査中の苦労をかき消した。遊撃戦の苛酷さと民衆の機微の一端を追体験するような調査を通じて、武は根拠地がいかにして民族的抗戦の震源地となったのかに迫った。
こうした歴史研究に取り組む中国をめぐっては、日本ではそれが「歴史戦」であり、人々に“恨み”を植え付ける政治的な教育だとみなす風潮がある。ゲリラ戦のモデルとなった紅石砬子根拠地について武が解明した「細部」をみても、そう言えるだろうか。
ゲリラ戦が功を奏したのは、貧弱な武器装備や補給を支える根拠地として、農村が大きな役割を果たしたからである。ただ、そうなる上で、遊撃隊が戦闘以外に多くの働きをしていたことを武は描き出した。たとえば、遊撃隊員は戦闘の合間に宿営地の周囲を開墾した。農民自身にとっても労作業だったからである。遊撃隊を指導した党のリーダーは、貧しい民衆を苦しめる地主や高利貸しによる搾取を制限し、人々の生活や秩序を改善する取り組みにも熱心だった。農村に浸透していた悪税や悪法を廃止し、農村経済を活性化させる措置も取った。また、自治的な農村委員会が設置されると、村内の揉め事を解決したりして、農民たちはそれを自分たちの「政府」とみなすようになった。旧習に縛られていた女性たちの権利意識も芽生え、積極的に遊撃戦を支えた。こうして党と遊撃隊が農民たちの置かれていた封建的な生活を幅広く改善したからこそ、民衆は逆に遊撃隊を支持し、ゲリラ戦に身を投じるまでになった。一人一人の農民を農村運営の主体者とする草の根民主主義が実践されていたのである。
つまり、根拠地を背にした遊撃戦とは、狭義の「戦闘」だけを意味するのではなく、「社会変革」の一環としての戦闘だった。生活改善、農村改革が進むほど、日本軍の存在がそれを阻害する大きな要因となっていることが目に見えるようになる。民衆を苦しめる社会の構造を変えていく改革の途上で、日本軍との闘争が不可欠になったのであり、必ずしも抗日が先立っていたわけではない。事実、日本の敗戦後に抗日闘争はなくなっても、農村生活の改革は続いた。
武にとって「恨み」は誰かに植え付けられるまでもなく、戦中戦後の家族の苦難を通じて染み付いていた。むしろ、こうした調査研究を通じて、先人たちがどれほどの苦難を越え、いかなる実践を通じて平和を掴み取ったのかを知り、歴史研究は現在の平和のためにこそ必要だと再認識した。日本の学校教育でも広島・長崎の体験等を伝えているが、それはアメリカへの恨みを植え付けるためのものだろうか。悲劇を繰り返さず、いかに平和を作り出すかを考える機会とするため、歴史の教育・研究が行われているのは同じだ。
青年世代がこうした調査研究を蓄積することで、日中の歴史研究者が対話できる環境が整いつつある。同じ戦争でありながら、見え方が違っているのはなぜか。それを対立点ではなく、次の共通課題にしていける。「戦後」を終わらせる一つの可能性をそこに見出したい。
トップニュース
2024/12/24 |
||
2024/12/19 |
||
2024/11/20 |
||
2024/11/27 |
||
2024/7/4 |