日中の平和友好への鍵を探る(5)
地域の被害を掘り起こす:青年が未来に託す歴史

半年ほど前、自分が暮らす地域の戦時中の歴史に向き合う中国の青年と知り合った。若い世代が負の歴史に積極的に関心を持つのは、中国でも珍しい。経済成長が進んで自己実現の機会が高まり、娯楽も溢れている時代だ。歴史や戦争被害が自分に直接影響を与えていると感じる若者は多くはない。

20代後半の沈涛さんもそうした世代の一人である。違うのは、彼が浙江省桐郷市で民間の歴史研究センターを運営していることにある。羊毛業が盛んで観光地でもある同地にどのような戦争被害/抗日戦があったかを、10年あまり調査してきた。南京大虐殺や従軍「慰安婦」など広く知られている出来事には、中国でも関心が高い。ただ、各地に埋もれている史実を掘り起こそうとする取り組みは稀少だ。彼の経験は、重い歴史的な負荷を背負っていない世代が、どのように日中関係の未来を切り拓く可能性があるのか、示唆を与えてくれる。

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沈涛さんは多くの中国の子どもたちと同様に、祖父母や両親から故郷でどんな戦争被害があったか聴いて育った。祖母からは、日本軍の飛行機から機銃掃射を受け、自宅周辺の屋根瓦が損傷し、家族とともに逃げたと聴いた。曾祖父は門前にあった果物の木に日本兵が登って万一転落すれば報復されると恐れ、その木を伐採したと、父が教えてくれた。

その後も、元日本兵が訪中し謝罪したという報道に関心をもった。転機となったのは、2014年に同地を訪れた日本人K氏との出会いだった。K氏の親族は戦時中、同地で行われた国民党軍との戦闘で死亡していた。一緒に戦跡を探したが、観光開発が進んでいて戦争の面影は何も見つからなかった。

K氏は日本の加害の歴史に向き合う調査活動や平和運動にも取り組んでいた。それは、沈さん自身の日本観を問い直すきっかけとなった。日本人は侵略の歴史をきちんと認めようとしないという印象を持っていたからだ。「日本人=悪者」という単純な捉え方を疑い、日本の多様な側面を見ようと努めるようになった。今では日本語の勉強も兼ね、日本のドラマから日本人の日常生活や人間関係、社会の特徴を学んでいると微笑んだ。

K氏は、戦死した親族が所属していた日本軍の部隊名を具体的に語り、どんな関連資料を調べたかも教えてくれた。他方で、沈さんが耳にしてきた戦争体験談は「日本軍が・・・をした」という語り口で、具体性に乏しかった。沈さんは、初めて知った部隊名を手がかりに、自ら資料や情報を調べ始めた。日本の連隊史や当事者の回想録も入手して調べると、K氏の親族がどのように亡くなったのか、K氏が語った通りだったことが確認できた。

この経験が沈さんを地方史の探求へと深く引き入れた。同地での戦闘にかかわった抗日老兵やその遺家族などを訪ね、当時の様子を聴いて回った(写真1)。老兵は高齢になり、記憶がはっきりしないところもある。史料調査を同時に進めることは不可欠だった。その過程で、子どもの頃に沈さんが聞いた地域の歴史と、史料や聴き取りのなかで見えてきた歴史との間には、埋めるべき溝があることに気付いた。当事者の子ども世代の語りになると、正確ではない内容がさらに増える。歴史の実像にもっと迫りたいと思うようになった。

沈さんの探求は、やがて周囲の人々を巻き込んでいく。2015年6月に地域史の研究センターを発足させた。民間組織で予算がなく、専従スタッフもいない。それでも、今では300名のボランティアが、自分にできる形で運営にかかわる。その関与の仕方も現代的で興味深い。同地の人々はもちろん、ネットを通じて関心を持った人たちが、史料や経験談の提供、史料の読解に必要な語学面の協力など、各自の得意分野を活かして集い合う。同センターでは、同地の方言の保存や子供たちへの継承活動も行っている。戦争期の史料が方言で記されていることも理由の一つだが、沈さんの地域への愛着も無関係ではない。

桐郷市は、南京大虐殺が行われる直前の1937年11月に日本軍に占拠されたが、その時期に民間人虐殺が行われたという話は確認していないという。しかし、史料を読み込むうちに、1943年末に住民50名あまりの虐殺が行われた痕跡が見つかった。ただ、当時の新聞を見ても、被害者名や人数など具体的な情報が不足していた。公文書も取り寄せたが、今も被害者の具体的情況は見えていない。何より、自分の暮らす地域でそうした住民虐殺が行われていたことが驚きだった。今も温和な人柄の住民が多い地域で、「三光作戦」に通じるような虐殺があったことは想像を超えていた。また、「慰安所」が複数設置されていた事実にも行き当たった(写真2)。いずれも地元の人にほとんど知られておらず、今では旧址も残っていない。まだ調査中だが、毒ガス使用の痕跡も出てきたと沈さんは語った。静かな地方都市の「歴史の地層」には、侵略戦争の縮図が埋もれていることが見えてきた。

こうした歴史の掘り起こしには、沈さんの「歴史勘」が作用している。文字通り埋もれつつあった町外れの抗日烈士の墓碑を見付けては、由来を調べ、保存に努めてきた。まず記された碑文や案内文などを読み、気になったところは当時を知る古老に尋ね回る。それから関連の地方史や新聞報道、内外の公文書館の史料という順に調べていく。そうするのは、沈さんより若い青少年世代に具体的な歴史を残したいからだという。いま以上に実物や遺跡が失われていくと、史実を知りたくても分からなくなってしまう。具体的な情報がなければ、曖昧にされたり、なかったことにされる恐れもある。中国や日本の軍隊の史料や回想録だけでなく、その事件が起きた地域にある史料や語り、埋もれた手がかりによって、より具体像に近づく。それは、歴史を地域住民の手に取り戻していくことでもあるのだろう。

沈さんから話を聞くなかで、「中日友好」といった大上段から構えるような言葉は出てこなかった。歴史の事実を様々な側面からできるだけ具体的に解明していく。それをどう受け止め、評価するかは、現在と未来の読み手に委ねるものだという信念が伝わってきた。足下の歴史を具体的に知れば、一人一人が日中間の関係をどう切り結んでいくかを自分で選ぶことができる。そうした芯のある楽観主義が新世代の日中関係を切り拓くことを願う。