日中の平和友好への鍵を探る(6)
自らの主体性を 取り戻すための反省へ

侵略戦争への贖罪意識だけでは戦後生まれの世代には継承されにくい。“戦略的互恵関係”といったドライな理念は時の状況に簡単に翻弄されてしまう。日中関係を開く「鍵」は思いもしないところにあるのではないか。そう感じていた時、新中国で戦犯となった泉(いずみ)毅一(たけ かず)が、裁判までの自身の変化を振り返った回想録「思い出の張(ジャン)夢実(モゥン シー)先生」(1991年)を手にした。末尾の一節が特に印象的だ。「純粋な若い世代は『許すことは出来るが、忘れることは決して出来ない』という日中友好の原点を、きっと理解して呉れると思う」とある。ただ、この文の含意は、私のような戦後世代が理解するのは容易ではない。忘れることができないほど重大な出来事を、許すことができるとは、どういうことなのか。それがなぜ日中友好の原点となるのか。泉には見えていても、戦後世代には見えていないものがあるようだ。

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写真1:前列左から2人目が張夢実

泉毅一と張夢実との関係から始めよう。泉は1950年代前半、新中国で戦犯として収容された日本人の一人だ。その管理教育担当者として接していたのが張である(写真1)。張を「先生」と呼んでいるように、泉は張に格別の思いを持っていた。日本人戦犯が自らを収容・管理する側を尊敬し、数十年後に回想録を書くというのは、想像し難いことだ(写真2)。戦争によって国土が破壊され尽くしても、新中国は復讐ではなく、平和な日中関係を作り出すためのアプローチが必要だと考え、戦犯に向き合った。それがいかに決定的な意味を持っていたかを物語っている。私たちは、中国がどれほど平和を希求し、それをいかに実現しようとしてきたか、どこまで知っているだろうか。

写真2:左から2人目が張、右端が泉

東京裁判等では戦犯の大部分は罪を認めず、反省もなかった。政府も戦後間もなく中国封じ込めに主体的に関与するまでになっていた。この状況下で建国した新中国は、一部の戦犯に極刑を科すだけでは平和には繋がらないと考え、別の道筋を探った。ただ、赦せば済むわけでもないという葛藤を張は伝えていた。

「侵略戦争で二千万の中国人が犠牲になりました。家屋財産の損失は莫大です。その恨みを中国人民は永久に忘れません。あくまでこれが原点、一切の出発点です。しかし、今になって君たちを処罰しても、死んでしまった人々が生き返りはしません。私たちにもそれは解っています。しかし、戦争だから仕様がないだの、上官の命令に従っただけの俺に責任がない、では中国人民の忘れ得ない深い恨みはどうなりますか。」

戦犯たちのこうした弁明は、現在の日本社会にも広く存在する。

そこで、新中国は、戦犯が罪を深く自覚し、反省を貫くようになれば、二度と侵略戦争に加担せず、平和の担い手になると考え、過去を自ら振り返るための工夫を凝らした。「率直に罪行を坦白(自白)する者は寛大に許し、頑固に反抗する者には厳罰」という方針は、寛大政策とも呼ばれた。朝日新聞の記者だった泉はこの状況を機敏に察知した。「すっかり忘れ去っていた」事実を思い返し、それを管理側に伝えれば、「誠実な反省の実を認めて貰えるキッカケになる」と考えた。そこで、「早稲田大学に留学した経験があると聞き、短い時間だが東京の学生々活などを話し合い、その人柄に親しみを覚えていた」張夢実に面談を求めた。

泉は、中国農民6人の虐殺現場に居合わせており、上官から斬首を命じられていたが実行しなかったことを伝えた。そして、「事実はこれだけですが、最後に付け加えますと、私は当時からヒューマニストでした。これは自信を以て申せます。だから中隊長がいくら厳命し、怒鳴っても、結局首を斬るなんかに手は下しませんでした。また、穴の底で血まみれにノタ打ち回る農民の苦痛を見るに忍びなくて、早く楽にしてやるよう、下土官に命じたのです。」

これで許されると考えていたが、張は「込み上げる怒りを押さえるように静かな語調で」応じた。

「自分はヒューマニストだったから、と君は言った。ヒューマニズムを君が口にしたから私も言いましょう。私の考えは君と違います。裁判も何もなしに、無辜の農民を日本軍の一中隊長の命令で殺害する、そんな非道な残虐行為を身を以て阻止する、それが私たちの言う本当のヒューマニズムです。ところが君はその虐殺現場に平然として立っていた。殺される農民の眼に、そんな日本軍将校がヒューマニストとして映りますか。また、若しその場に被害者の肉親がおって、まだ息がある、生きているとなれば、当然なんとしても命を助けたい、と必死になります。それを君は『殺せ!』と冷然と命じている。そんなヒューマニストがありますか。血まみれの殺裁者、最も憎悪する“日本鬼子”そのものです。」

殺される農民の眼など「一度だって思ったことはなかった」泉は、「心を動転させる激しい衝撃」を受けた。ただ、張の眼差しはさらに先を見ていた。

「君が真面目に戦争責任を考えようとしたのは、君の為に大変良いことだ。これから更に学習を進めるのを期待するが、私たち中国人民の手前をどう上手く取り繕うか、に苦心しても無駄です。(略)大事なのは君自身の問題です。その頃の思想と行動の本質を、自ら点検する。君の言うヒューニズムの為に、それが最も肝心なのだ。その点検の結果は己れだけの胸に納め、口外しなくて宜しい。私たちの方もまた、問いはしないだろう。」

被害者が求めるから反省するのではなく、自身の主体性を取り戻すために過ちの反省が必要だという示唆を与えている。2年ほど後、張は再び泉を励ました。

「中国人民のこの恨みは、どうすれば少しでも和らげられるか。軍国主義の悪、戦場での残虐行為の数々を反省するのは、“君自身の為に”良いことだ、と私は度々言った。中国人民の手前をどう言い逃れるか、ではなく君自身のヒューマニティの為に、軍国主義の思想と行為を、悪かったと本当に思って欲しい。失った本来の人間性を取り戻し、君の思想として定着すれば、少なくとも君は二度と同じ侵略戦争を繰り返すまい。やがて日本の全国民がそれを共通の思いとして呉れる。その時こそ、中国人民は忘れ難い恨みも許せましょう。それを私たちは切に願うのです。永久に忘れない恨みが原点、というのはこのことです。」

忘れ難い恨みを許せるようになるまで、日本社会が主体性を取り戻すのを中国は今も待っている。

〔本連載は「山西抗日戦争文献捜集整理与研究(19KZD002)」の成果の一部である。〕