日中の平和友好への鍵を探る(3)
国交回復後の世代が紡ぐ 日中友好の“かたち”

45年前、平和友好条約の締結に臨んだ人たちは、後に続く世代の日中関係をどう思い描いていただろうか。

筆者を含めた国交回復後に育った世代には、「日中友好」というフレーズはやや掴みどころに戸惑う側面がある。国交がなかった時期にその回復を求めて民間交流を続けた世代にとって、それは侵略戦争やその贖罪感に一区切りを付ける取り組みだった。他方で、国交回復後の世代には直接的・個人的な戦争責任はない。他の国と同じように良い関係を作っていくべき国の一つである。だから、年長世代がそうするように、中国との間にだけ「日中友好」という言葉を標榜するのは、どこか実感が伴わない。それは、日中友好運動に若い世代の加入が極端に少なく、どこも継承が困難になっている現実に表れている。また、「日中友好」のかけ声とは裏腹に、1990年代半ば以降の両国関係は悪化の一途を辿ってきた。とはいえ、中国と良い関係を築いていこうとする若い世代もいないわけではない。彼らはどのように中国や日中関係に向き合っているのだろうか。

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手がかりとして、この夏、鳥取県米子市で行われた戦争展示会を取り上げてみたい。8月13日に「平和のための戦争展」の一企画として、「桧山高雄絵画パネル展:元戦犯が描いた中国侵略絵画」が開催された。著名な画家の作品でもなければ、元戦犯が侵略の実態を描いたというのも珍しい。

準備に当たったのは、戦争展の実行委員で40代の会社員・北川拓道氏(仮名)。学生時代から世界の平和と日常を結び付けるピース・ソングを紡いできたミュージシャンでもある。

もう一つの顔として、「山陰中帰連を受け継ぐあさがおの会」という市民平和団体の代表も務める。今回の展示は2007年に生まれたこの団体の活動の一環である。山陰中帰連とは、戦後の中国で戦犯となり、帰国した人々が結成した平和団体「中国帰還者連絡会」の山陰支部(51名)を指す。収容中に自らの加害責任、戦争責任を自覚した。帰国後は個々の犯罪行為を日本社会に伝えることで、日中友好を実現していこうとした。戦争責任意識に根ざした伝統的な日中友好運動の後継団体として、あさがおの会は出発した。

山陰中帰連とあさがおの会を結び付けたのは、山陰支部の故・難波靖直氏である。あさがおの会の若いメンバーは難波氏の加害体験とその真摯な反省に触れ、自分のなかに「何か」が動き出したのを感じた(写真1)。難波氏ら元戦犯の話を市民に聴いてもらう加害証言集会を企画したり、軍隊経験をまとめた本を共同編集し、出版したりしてきた(『残してきた風景』)。難波氏が2014年に90代で逝去した後も、健在の元戦犯たちと平和発信を続けてきた。また、メンバーそれぞれの関心に沿って、安保法制反対や被爆者との連帯など幅広い平和実践を続けてきた。

山陰中帰連の最後の一人も今年、101歳で亡くなった。若い世代を静かに巻き込んでいった難波氏亡き後、10年にわたって活動するのは容易ではなかっただろう。元戦犯の加害体験を、当事者ではない若い世代が代わりに話しても、「伝わる」力が違う。また、30代から40代のメンバーは仕事や子育てに、50代から70代の世代は親の介護や自身の病気などにも直面していた。長引く不況の影響もあった。「中国脅威論」に疑問を呈すと、「中国寄り」だとなかなか相手にもされない。彼ら自身に主体的な「何か」がなければ、とても続けられなかっただろう。

今回の桧山高雄絵画展はこうした流れの中で企画された。桧山氏も難波氏らと同じ帰国戦犯で、反省と悔悟を油絵で表現してきた。それは同じ戦犯仲間をも揺り動かし、1980年代以降、福岡や埼玉などで戦争絵画展が開かれた。山陰支部でも何度か開催し、今回はその延長上にある。展示用に作成された絵画パネルは、難波氏らが作成したものを引き継いで活用している(写真2)。

反省絵画と呼ばれるその筆致は写実的というよりやや抽象的で、トーンも暗い。「観た人がどう感じるかがすべて」だと北川氏は語る。「桧山さんは既にこの世にいない。桧山さんのことや、戦争当時の状況を絵の中から読み取るのはとても難しい。でも、それに触れる場を作れば絵を遺した人の思いに繋がると思って、準備しました」。また、絵画展が「少しでも過去の歴史に向き合う場」になればと、桧山氏の戦前戦後の歩みを説明するパネルを新たに追加し、配布用のリーフレットも作成した。一見すると、国交回復以前から存在する歴史問題に、若い世代も継続的に取り組んでいるという構図にも見える。しかし、北川氏の思いは過去を踏まえた未来に向かっていた。

「学習して、知るだけでは不充分だと思うんです」と力強く語る。「学習するだけじゃなく、そこから未来のために何が活かせるのか理解して、自分たちで教訓としてまとめていくことが大事だと思います。自分のこととして考えることができないと、学ぶことに満足し、学んでいない人はダメだと、歴史や事実を知らない人、考えが異なる人への攻撃になってしまう。そうではなく、平和でよりよい社会、未来を作っていくための一つの行動として、やっていることなんだと。」

難波氏らのどこに彼らが惹き付けられたのかが伝わってくる。戦犯に問われた日本人は、当初自分には戦争責任はないと反発していた。しかし、中国側の人道的で手厚い対応や、時間を掛けた学習・自己反省活動などによって責任を見出していった。直接的な戦争責任はないとはいえ、どこか無関係ではいられないという複雑な思いを抱えていた北川氏の世代にとって、その引き裂かれた思いを丸ごと是認してくれたのが難波氏らだった。

北川氏は、この夏に山陰で開催されたもう一つの戦争展示についても触れた。島根大学図書館で開催された「戦争と平和を考える2023:ラーゲリ(収容所)にいた島根の人たち」にも、あさがおの会の若手メンバーがかかわり、同図書館に収蔵されている山陰中帰連の史料も展示された。「話題の映画の上映会を入り口にし、地元の身近な素材を扱うのは、若い世代に関心をもってもらう上で大事ですね」。そこには、北川氏が難波氏と同じ側を向いて考えている姿勢が表れている。過去の過ちに向き合い、それを平和友好へと転じた先人の経験から、現在と未来を照らす光を見出すことが、新しい継承の“かたち”となっている。