日中の平和友好への鍵を探る(2)
地域の加害責任に向き合う 日中友好運動

近年、日中友好を掲げる運動の中にさえ「中国脅威論」の浸透を感じることがある。さすがに“中国は脅威だ、攻撃に備えよう”とまでは言わない。ただ、“中国は発展して大国になり、膨脹主義に走っている。自由や民主主義を抑圧している。「昔の中国」に戻ってほしい”といった声は少なくない。発展=脅威と感じるのはなぜなのか、変わったのは本当に中国の側なのかと、違和感をもっていた。

そんな時、秋田県大館市にある「花岡の地 日中不再戦友好碑をまもる会」から、毎年行われている「花岡事件中国殉難烈士慰霊祭」の開催案内を受け取った。戦後いち早く国交回復運動を先導し、今も粘り強く日中友好運動を担い続けている先達は、現在の日中関係をどう見ているだろうか。それが知りたくて、信正寺での慰霊祭に4年ぶりに参加した。参列者50名の小さな集まりだが、僅かながら若者も参加し、メディアの取材も見られた(写真1)。

花岡は、戦争末期に中国から強制連行された捕虜・民間人が奴隷労働をさせられた135ヶ所の事業所の一つである。鹿島組(現・鹿島建設)による虐待・虐殺に堪えかねた中国人は1945年6月末に蜂起したが、官憲や地域住民によって武力鎮圧された(花岡事件)。最終的に986名の被連行者のうち419名が亡くなった。慰霊祭は78年前のこの犠牲者を弔い続けてきた。同会代表の富樫康雄氏によるあいさつは含蓄に富む。

「毎年慰霊の集いを行うことは、決して簡単ではありません。しかし、『殉難者の皆様、安らかにお眠りください』と、最後の集いの宣言を言えるような状況ではないことが、日本政府の頑な態度に表われています。歴然とした歴史上の事実を『そのうちみんな忘れ、なかったことになる』とでも言いたいのでしょうか。」

同氏自身が80代後半で、「まもる会」は高齢化が進んでいる。体調面でも続けるのが難しくなり、若い世代に継承したいと考えても不思議はない。しかし、とても終わりにはできないのが日本の現状だという認識が示されている。逆に言えば、日中間に平和と友好が根付いていれば、慰霊祭を終わらせることができると考えているのだろうか。恐らく逆だ。過去の過ちを自ら反省する動きが社会全体に拡がり、持続しているなら、必ずしも慰霊祭という形を取ることなく、平和と友好のための実践が深まりを見せる「現在」になっていただろうと。

それは夢物語だろうか。戦後ドイツでは、ユダヤ人虐殺などを反省し、戦争被害者に向き合い、負の歴史を学ぶことで、過ちを乗り越える実践が続けられた。それがユダヤ人社会や近隣諸国との関係改善を生んだ。アメリカでさえ日系人強制収容の過ちと責任を認めた。日本政府や社会が好む「欧米基準」は、歴史問題ではなぜか適用されない。国際平和や近隣友好といっても何をすればいいのかイメージしにくいが、今の日本社会にとってそれは負の歴史に向き合うことだと、まもる会の実践は教えてくれる。

とはいえ、同会が長年にわたってこうした特徴的な取り組みを続けられたのはどうしてなのか。富樫氏は、いかに歴史を書き換えようと、時間の経過による忘却を待とうと、事実は消すことはできないと述べる。歴史に向き合う同会の姿勢に鍵がありそうだ。

中国人強制連行と奴隷労働の現場で、市民や行政がこうして慰霊祭を続けているのは稀だ。ただ、1950~60年代には、犠牲になった中国人被害者の遺骨の発掘やその送還運動が全国的に展開された。先駆けとなったのが花岡だった。敗戦後、生存者の要求に基づき、GHQの立ち会いの下、鹿島組によって無造作に埋められた400あまりの遺体が掘り返され、同社の反人道的な戦争犯罪が明るみに出た。火葬後の遺骨にはGHQも関心がなく、鹿島は花岡にある信正寺の狭い本堂に持ち込んだ。蔦谷達道導師による献身的な供養と保管の4年間が、花岡の慰霊祭の淵源となる。やがて現地で事件調査が進み、新中国が成立したことも契機となり、1949年11月に鹿島はようやく信正寺の裏に供養塔を建てた。ただ、コンクリートの穴に遺骨を収め、セメントで蓋をしたもので、納骨堂というより、さながら隠蔽施設だった(写真2)。

その後も鹿島組が遺体を粗末に埋めた山中に遺骨が散乱していることを知った地元の関係者や中国人留学生らが、1950年と1963年の遺骨調査で掘り起こした。その際、政府や鹿島組が虐殺を隠蔽する姿勢を持っていることを告発し、抵抗を続けた。1963年の調査では「一鍬奉仕運動」という形で、花岡の多くの住民が発掘に加わった。この時のことを、まもる会メンバーである故・岩田正行氏が書き残している。

「1963年頃、遺骨発掘の『一鍬運動』に参加する機会があった。その作業を通し、我々日本人はいかに惨い事をしでかしたのか、いかに野蛮極まりないことをしたかを、数多く知らされたのである。考えてみれば、お国のため『天皇のため』といって彼らを罵り、残酷で虐待の限り、過酷な労働を強い、非人道的な悪事を与えてきた立場であったと思うと、我々民びとも帝国主義者、軍国主義者と等しく加害者であった。」

遺骨の掘り起こしに加わった住民は、死後も冒涜的に扱われる中国人の遺骨を拾い上げる自身の手を通じて、自らとその社会の加害者性を身体の奥深くに刻み込んだ。再び戦争が起きれば、その体制のなかでまた同じ加害に手を染めるかもしれない、だからこそ、絶対に戦争を起こさないという強い積極性をもった平和主義を、事実を隠蔽する勢力と対峙しながら培ってきた。戦争は悪だ、悲惨だという抽象論に基づく戦争反対とは一線を画している。情勢が変われば、中国との戦いに備えるのも止むを得ないという「平和主義」は、単なる権力政治(パワー・ポリティクス)の現状肯定だと見ている。

そう考えるとき、彼らがまもり続けてきた「日中不再戦友好碑」という碑銘は示唆に富む。日中友好は不再戦のための努力によって実現できるものであり、単に仲良くするという話ではない。事実、同碑は加害企業による歴史の隠蔽をこれ以上許さないという闘いを通して建立された。

日中友好運動や日本の戦争責任を前提にする歴史観を時代遅れとみなす風潮がある。しかし、不再戦こそ友好であり反省の実践であるという歴史観、平和観こそ、被害者・被害国と共有可能なグローバル・スタンダードである。