国交回復後の50年を生きなおす(4)
戦争の「後遺症」のなかで

前回取り上げた孟生保さん(83歳)は、戦争で失われた家族やその戦友たちの尊厳を取り戻すために戦後を歩み続けた。被害調査を続けるのが難しくなった2000年代には、高校生だった孫の武凌宇さん(31歳)が手伝うようになった。同世代の若者が趣味や旅行、SNSなど私生活を楽しむなか、凌宇さんは故郷を蹂躙した日本軍部隊に関する資料や情報をネット上で集め始めた。何がきっかけでそれを始めたのかを尋ねたが、抗日戦争の犠牲者の苦難を考えれば当然のことだと語るだけだ。虐殺された曾祖父は話に聴くだけの存在だが、周囲の老人たちが戦争中の話をする時の様子は小さい頃から印象強かった。直接暴行された人も間接的な被害を受けた人も、日本軍による仕打ちを語るとき、あまりにも恐れ、憎んでいた。憤慨し、泣き喚き、地団駄を踏み、大声で罵る言葉を発した。誰もが昨日の出来事のように苦しんでいた。何より祖父の生保さんの姿には、独特の苦痛が伴っていた。少し話しただけで頭を抱えて黙り込み、食事は何日も喉を通らず、悪夢にうなされた。6歳頃、曾祖父たちの最期について家族から全てを聴いた。祖父が度々家を空けているのは被害調査のためであり、その費用を作るために一家の家計が周囲に比べて苦しいことが見えてきた。90年代とはいえ砂利混じりのいちばん安い米しか食べられず、肉も滅多に口にできない幼少期だった。

次第に祖父に代わって被害調査を行うようになった。大学で歴史学を学びたかったが、就職に直結する技術を学んだ。故郷から離れた工場に就職したため、調査には費用を要した。ただ、加害者に関する具体的情報をほとんど入手できなかった祖父の調査とは違って、ネットを駆使できる時代になっていた。関連資料は国内だけでなく日本からも購入し、それを手に各地に出掛け、被害者と一緒に写真や資料を確認した(写真下)。加害/被害の事実を再構成して史実に迫ることで、被害者の心の中に数十年も巣くっていたものが和らいでいくのを傍で感じた。それは凌宇さん自身にとっても願いが一つ叶ったと感じる瞬間だった。

とはいえ、経済的な負担や人間関係に与えた代償は小さくなかった。就職後の十年、給与の大半を資料購入や調査費用に費やした。彼の母が準備していた結婚資金まで資料代に回し、家族から非難された。友人も関心が違うと離れていき、被害調査など止めた方が良いとアドバイスを受けたこともある。

被害者を訪ねると、2010年代に入っても戦争被害の「後遺症」に苦しみ、困窮している家庭が少なくないことを知った(写真下)。聴いてみると、戦争中に働き手の男性を多く失った農家ほど深刻で、子や孫が働けるようになるまでは、苦しい暮らしを長く続けた。その影響はさらに次の世代にも及んでいて、凌宇さんは自分の家庭だけの問題ではないことに気付いた。暴行を受けて心身に損傷を受けた被害者の中には、経済事情から十分治療を受けられないまま高齢に達している人々も見られた。性暴力に晒された女性被害者の中には精神が錯乱したまま戦後を生きた人もいて、彼女たちを支える家族は現在でも苦労を重ねていた。それでも、若い世代の凌宇さんが被害者を訪ねると、心と身体に残る傷にどう向き合ってきたのかを、心を開いて話してくれた。被害者たちは戦後ほとんど語ることのなかった自身の苦難を聴き取ろうとする青年を前に、僅かだが安らぎを感じているようだった。そして、加害者と日本政府に罪を認めるようにしてほしいと、若い凌宇さんに託すのも共通していた。

ある女性は戦争末期に集落全体が焼き討ちに遭い、父は日本軍に連行されて重傷を負った。そのため養女に出されたが、そこでも養父が日本軍に暴行され、亡くなった。行き場を失った女性は実家に戻ることも拒み、心身の混乱の中で戦後を生きてきた。彼女から話を聴き終わった時、凌宇さんは女性の実家と養父が経験した苦難の根源は、すべて日本軍の残虐さがもたらしたものだと告げた。彼女はいくらか安心し、長年苦しめられた心の乱れが少し収まったという。語りえぬものを語り、耳を塞ぎたくなる経験に耳を傾けることは、被害者同士で戦争の傷を癒やし、失われた自己と戦後を少しずつ取り戻す。

被害調査は多くの困難にも直面した。当時の抗日勢力が弾圧され、地域社会が日本軍に襲撃された裏側には、たいてい対日協力者の存在がある。事実を知るには彼らからも話を聴く必要があるが、その子孫は直接は知らないと生保さんや凌宇さんを追い返すことが多かった。それだけではない。幼少期に凌宇さん一家は近隣住民から日常的に嫌がらせを受けていた。表向きは凌宇さんが母子家庭だと当てつけるものだったが、実際には対日協力者の子孫による抗日勢力の子孫への報復だった。調査を始めた凌宇さんが戦争被害者に関する記録を幾つか発表するようになっていた2010年、窓ガラスが割られ自宅が放火された。部屋は全焼し、収集した資料や原稿も失った。しかし、証人になってくれる人も少なく、捜査は難しい局面を迎え、実態は解明されずに終わった。普段からこうした事態が珍しくないのは、抗日勢力と対日協力者との分断が作用していると凌宇さんは見ている。侵略戦争が生み出した分断は、今も「双方の心にトゲを残し」、地域社会の団結や婚姻関係の拡がりを阻害している。凌宇さんら被害第4世代の間にも続く地域の分断は、公正な社会の存立を破壊し続けている。

侵略戦争が破壊するのは生命や身体だけではない。日々の穏やかな暮らし、他者を思いやる心や感情、喜びと安心の源となる人間関係、地域社会の支え合いなども失わせた。社会を社会たらしめる“相互の信頼”がいったん損なわれるとその再建は困難で、分断は固定化、持続化していく。被害者たちは自分たちの努力でそれを克服し、取り戻そうとしてきた一方で、容易には抜け出せない現実も残る。こうした「後遺症」を少なくとも悪化させないために、責任主体として日本社会にできることは何か。生保さんが願ったように、二度と侵略戦争をしないという姿勢の堅持は、安心をもたらす。凌宇さんが実践したように、まず相手を信頼し、耳を傾ければ、状況に左右されない友好に繋がる。それは、日中国交回復の原点を取り戻すことに他ならない。

〔脱稿後、孟生保さんの訃報に接しました。父の写真を取り戻すという悲願は永遠の遺憾となりました。御冥福を願って本連載を捧げます。〕