日中の平和友好への鍵を探る(4)
2つの「10月25日」と「台湾問題」

現在の日中関係の焦点の一つは「台湾問題」にある。

これについて語るとき、必ず言及されるのが「一つの中国」という立場である。台湾を含めて中国は一つの主権国家であるという概念だ。もちろんこれは、“中国は2つある”という政治的主張に対置される形で使われる。ただ、わざわざ「一つの中国」と言わなければならないという事態が奇妙だと感じる人は、どれほどいるだろうか。「一つの米国」「二つの日本」などという概念が存在しないことを確認すれば、その異常さを感じ取れるだろう。

複雑なことに、少なくとも外交の次元では、米国も日本も「一つの中国」という中華人民共和国の立場を踏まえており、国際ルールになっている。にもかかわらず、内政や同盟国との間などで、「もう一つの中国」があるかのように振る舞うダブル・スタンダードが見られる。

多くの国は国内に多様性を有しており、深刻な対立を内包していることもある。「単一民族国家」という幻想が根強い日本にも、琉球、アイヌ、在日コリアン、在日中国人などが暮らしている。大陸と台湾との対立は民族や宗教によるものではなく、国民党と共産党という党派的対立に由来する。他国であれば、“国内に存在する深刻な政治的対立の一つ”と見なされる事柄ともいえる。

それでも、このような括り方をすると反発が生じてしまうほど、大陸と台湾は別々の独立した存在で、一方が他方を抑圧しようとしているという図式が勝っており、暗黙の前提ともいえる状況がある。

しかし、当の中国では、こうした捉え方は決して一般的とはいえないことが、日本社会ではどこまで知られているだろうか。この“大陸と台湾に分かれた中国”という捉え方がどこから来たのかを確認すると、「台湾問題」なるものの本質が見えてくる。

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中華人民共和国は、台湾を一つの省と位置付けている。一般市民の感覚でも、複雑な状況はあるものの台湾は当然中国の一部であり、第三国の一部でもなければ、その影響に左右されるのもおかしいと感じられている。また、台湾でも、民進党による台湾独立の主張が悪目立ちしているが、公式には「現状維持」に軌道修正している。近年の世論調査でも同様で、統一でも独立でもない曖昧な現状のままでよいという声が多いとされる。台湾では今も中華民国憲法を「運用」しており、大陸地域には統治が及ばないだけで、大陸を含めた中国全体を施政範囲としている。したがって、そこでも台湾は「一つの中国」の一部だという扱いになっている(写真1)。

つまり、大陸でも台湾でも分断はあっても「一つの中国」と認知されている側面が大きい。

では、“大陸と台湾”という捉え方、それぞれを別の政治主体だと捉える見方が、日本で暗黙の前提となっているのはどうしてなのか。そのことを考える手がかりとして、今号の発刊日でもある2つの「10月25日」に着目してみたい。一つは1945年、もう一つは1971年である。

日本敗戦後の体制を構想したカイロ宣言およびポツダム宣言は、台湾の中国返還を規定していた。1895年以降、台湾を植民地支配してきた大日本帝国の第19代台湾総督と台湾省行政長官との間で、1945年10月25日に降伏式典が行われ、台湾は中国に返還された。この時期にはまだ中華人民共和国は存在せず、台湾の帰属先が中華民国であることは明白である。むしろ、日本が中国から台湾を切り離して植民地化したことが、“中国は大陸と台湾に分かれる”という発想の淵源の一つとなっていることを確認しておく必要がある。

もう一つの1971年10月25日は、国連における代表権が、台湾に逃れた「中華民国」蒋介石政権から中華人民共和国に移った日である。この時点まで、“中国は大陸と台湾に分かれる”状態にあったことを示している。1949年10月の中華人民共和国の成立に伴い、いずれが国連の中国代表権を有するのか、国連でも20年にわたり議論が続けられた。この日の第2758号国連総会決議は以下のように規定している。「中華人民共和国の全ての権利を回復し、中華人民共和国政府の代表が国連組織における中国の唯一の合法的な代表であることを承認する」。また、蒋介石政権の「代表」を、その不法に占拠する議席から追放することも決定した。

これは、それまで蒋政権が中国を代表してきた状況を国連が不当視し、「一つの中国」として中華人民共和国政府を扱う宣言である。国民党と共産党の内戦の結果、中華民国から中華人民共和国へと継承された経緯そのものも含めて承認されたことを示す。本来ならこの時、“中国は大陸と台湾に分かれる”状態は解消して然るべきだった。

しかし、この国連決議の際、米国等が「二重代表制決議案」を提出していた。これは、中華人民共和国の国連参加を認め、安保理常任理事国の席も与えると同時に、「中華民国」の議席も認めるという案だった。提案には日本も加わっている。この二重代表制決議は表決には至らなかったが、米日等が“中国は大陸と台湾に分かれる”という状態を維持しようとしていたことを示している。

この際、蒋政権代表はこれ以上の審議に加わらないと、国連総会を退場した。二重代表制を受け入れて妥協する姿勢もとらなかった。この時点でも、大陸、台湾ともに「一つの中国」という捉え方が基本であり、「一つの中国、一つの台湾」という捉え方に米日などが固執していたことと対照的である。

この翌年、米国、日本は相次いで中華人民共和国と関係改善を進め、「一つの中国」を前提に外交を展開することになる(写真2)。とはいえ、日中共同声明第三項が物語っている通り、その後も日本は台湾の帰属先を明確にすることを回避し続けてきた。米国が日本との戦後処理の場であるサンフランシスコ講和会議(1952年)から中華人民共和国を排除したことも同じ狙いで、72年以降の中米関係でも曖昧さは残された。現在、「台湾有事は日本有事」等として日米が介入する姿勢を見せているのは、この延長上にある。

以上のように、「台湾問題」は米日など第三国が持ち込んで作られたという植民地主義的構図を認識しなければ、「中国の問題」と誤認してしまいかねない。明治期に始まった台湾を中国から切り離そうとし続ける動向が、戦争と平和のいずれに繋がるものなのか、平和を愛する日本の市民と議論していきたい。