国交回復後の50年を生きなおす(1)
「始まり」としての日中国交回復

 1972年9月、「平和友好関係を樹立」することを目的として、日中間の国交が回復した。直後のパンダ贈呈に始まり、友好交流は活発化した。ただ、80年代には早くも歴史認識問題が生じた。現在の日中関係は、目標にしていた到達点からさらに遠い地点にある。曖昧にせず、きちんと解決すべき課題だと意識されながらも、そのまま50年が経ち、取り返しの付かない局面だけが残りつつある。この流れを断ち切るには、腰を据えて向き合おうとしてこなかった積年の課題に向き合うしかない。手がかりとして、今回の連載では、戦後一貫して戦争責任を直視してきた少数の例外者と、ほとんど日本社会の視野に入ることのなかった戦争被害者の戦後に光を当てたい。

 国交回復後は日中双方で慶祝ムードに沸き立った。一方で、当時から国交回復に危うさを感じていた人々もいる。田中角栄首相が交渉中、先の戦争について「多大のご迷惑をおかけした」と述べたことに、周恩来首相が厳しい姿勢を示したことは知られている。その後、共同声明の文言は「戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた」「責任を痛感し、深く反省する」という表現となり、いったん落ち着いた。

これが言葉尻の問題ではないと見抜いていたのが、新中国から帰国した元日本人戦犯だった。東京裁判やBC級戦犯裁判では被告の大部分が自身の戦争責任を否認したのに対し、新中国で戦犯となった者たちは、犯罪行為を全面的に自供し深い反省を示していた。とはいえ、彼ら自身も、収容当初は戦犯としての自覚はなく、激しく反発していた。せいぜい当たり障りのない反省を示せば赦されるだろうと考えていた点で、田中首相と大きな違いはなかった。しかし、中国側は戦犯を人道主義的に処遇する一方、戦争犯罪の追及には厳格だった。自身の過ちを全面的に認めて罪の深刻さを自覚しなければ、再び侵略戦争に加担しかねないと考えたからである。ただ処罰するだけでなく、平和な戦後を担う市民へと全面的に更生することに意義を見出す裁判だった。戦争中の自己のあり方に何年も掛けて向き合った戦犯たちは、葛藤を重ねた末に個人としての加害責任を認めた。中国側はそれを受け入れて一人も死刑にせず、釈放した。

 こうした認罪経験を経て帰国し、中国帰還者連絡会を結成して反戦平和運動を続けていた元戦犯たちは、当時の国交回復を「無原則的」だと見ていた。同会の山陰支部の主張が興味深い。

「今回の復交〔国交回復〕進展は、中国側の事情と、アジアと世界の平和のため、中国人民が過去のウラミと苦痛を押さえて、手をさし伸べた結果実現したものです。これを外側からながめて、これで復交できる…、これが日中友好の姿だと単純に認識するならば、大変な誤ちを犯すでしょう。しかもその可能性は強いのです。我々日本人は、加害者の側に立つ日中復交です。過去の反省を抜きにした復交はあり得ないはずです。そして反省に立った日中復交とは…台湾との日台条約の破棄をウヤムヤにしたものではないはずです。そして平和五原則に立った日中復交でなくてはなりません」。

本来、加害国が侵略戦争を反省し、その過ちを繰り返さないための実践を重ねていれば、もっと早く国交は回復していただろう。しかし、戦後の日本は新中国との間で戦争終結=国交回復を進めようとしないばかりか、再軍備を進め、米国と共に対中国封じ込めを展開していた。帰国戦犯はこれを形を変えた侵略戦争の継続だと捉え、中国敵視や制裁に反対する運動を続けた(写真1)。被害国が抑えがたい怨みや苦しみを制御して国交回復に期していることの重大さを受け止めるなら、同じ過ちを繰り返さないことが至上原則となると考えていた。

確かに、交渉の前提となる十分な戦争反省の準備もないまま戦争賠償の放棄に拘泥した日本側に、中国政府は満額回答を示した。これは最大限の寛大さを示したことになる。敵対する相手であっても、信頼と友好を先に投げかけるのが新中国の平和外交の特質であり、国交回復交渉もその延長上にあった。単なる対話や駆け引きではなかったからこそ、その寛大さをどう受け止め、「大変な誤ちを犯す」ことなく行動に移すかが問われていた。

ところが、1980年代に入ると教科書問題や靖国参拝問題、90年代には歴史修正主義の台頭、2000年代には「つくる会」教科書の検定合格や小泉純一郎首相の靖国参拝など、国交回復時の戦争の反省を覆す出来事が相次いだ。2010年代には国交回復時に帰属問題を棚上げしていた尖閣諸島/釣魚島が国有化された。近年の中国脅威論に基づく日米の軍備強化も、封じ込め政策の延長にあることが見えてくる。それでも中国は、日本が信頼と友好のボールを受け止めることができる相手だという敬意を捨て去っていない。

一方、加害者としての反省を堅持しなければ国交回復後も過ちを繰り返しかねないと感じていた戦犯らは、80年代の教科書問題が起きると即座に声を上げた(写真2)。90年代に侵略戦争を否認・正当化する動きが活発化すると、自らの加害体験を直接市民に語り、雑誌を発行するなどして対峙した。被害者へのまなざし、あるいは加害行為やその反省を欠いた独りよがりな戦争観や歴史観の横行は、戦時中のそれを彷彿させたからである。同じ怨みや苦痛を再び与えないための実践こそ信頼と友好を受け止めることだと考え、90歳代を過ぎた2010年頃まで語り続けた。

 戦後も継続する侵略政策に抗ってきた帰国戦犯たちは、国交が回復すれば和解が実現するという表層的な平和観に懐疑的だった。朝鮮戦争やベトナム戦争で(その後の湾岸戦争やイラク戦争でも)日本が攻撃基地、後方支援拠点となったことは、侵略政策の一端を担うことだと明確に非難していた。米日の圧倒的軍事力が周辺国にとって脅威であり、発展の阻害要因であったにもかかわらず、憲法9条のある平和国家日本は侵略とは無縁だと感じられてきたのと対照的である。戦犯らは、戦前戦後の過ちを認め、それを繰り返さないための確かな平和実践の「始まり」として、国交回復の含意を消化していた。平和は平和を生み出す持続的な実践を通じてしか生まれず、それ抜きにはいつでも戦前の情況に戻ってしまう、だからこそ戦犯たちは国交回復の理念を生き直し続けたのである。