アジアの眼〈73〉
「無くしたものは、形を変えて戻ってくるはずだ」
――肖像画を描き続ける現代美術家、童雁汝南

バーゼル香港に出掛けた際に、杭州をベースに作家活動をしている童雁汝南氏を取材した。

幼い頃、家ではお姉さんに絵画と書道の勉強をさせられていたが、みんなに黙って半年ほど一人で絵を描いていて、見つかった時は家族に相当驚かれたという。そして、8歳前後の頃には、神童扱いされ、頻繁にテレビ局の取材が来ていた。ある日、お父さんの判断で取材を一切受けないと決め、静かな生活に戻れたという。

photo by Bob Krieger

少年時代の彼は、夏休みのたびに杭州に出掛けては、絵画クラスに通った。その結果、自然に大学は中国美術大学に進学し、卒業後はそのまま大学に残り、教鞭を取ることになる。

現在、中国美術大学の教授を辞め、イタリアのベネチア美術大学と復旦大学の特別客員教授を務めている。

そして、現代作家としては20数年にわたり、顔を描き続けていることで有名だ。実際のモデルと対峙し、一日かけて描くという。肖像画という一見西洋絵画の伝統的な題材を描き続けることは、美術評論家から見れば、あまり現代アートではないとか、企画しにくいという印象を与えるリスクがある。にもかかわらず、筆を握ると顔を描くことしか思い浮かばないという。

photo by GAO

肖像画が壁一面に飾られる彼の個展は世界中の重要な美術館で開催されている。壁一面のその絵画は現代絵画である。直近では、蘇州の拙政園の外側にY.Peiによってデザインされた蘇州博物館での個展だ。同じサイズの肖像画群が迫力ある特徴となっている。

バーゼル香港でもイタリアのギャラリーから出品されている彼の縦3枚の肖像画がある。それがコンテンポラリーなのか、伝統的なジャンルに入るのかという分類は、実は便宜的なものであって、作家にとってはどうでもいいことのようだ。

2006年の「肖像の中の肖像」香港のオルサーギャラリーでの個展、2008年の「About Face」、2013年の北京今日美術館の「苞丁解牛(神業)」展やボロニヤG.M.Aでの2年に一度の「時間の形状」というテーマでのモランディとの二人展以外、2015年からの彼の世界各地の個展のテーマは「Face to face」になった。同年、ドイツ・ボン美術館展とミラノ・アート展及びレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館展、2017年のスイス・ダ・ヴィンチアートセンター展、2018年のベネチア・クリスチャンパリヤ基金会美術館展、2019年の武漢美術館展、2020年のドイツ・ハーゲン・オストハウス美術館展はいずれもFACE TO FACEをテーマに定着させている。

2019年ベネチアビエンナ-レコートジボワール国家館展示

2024年蘇州博物館個展「無相」

ポストコロナの2023年、蘇州博物館での個展のテーマは「無相」になった。童氏は肖像画を26年間描き続けている。モデルを目の前に座らせ、描くものと描かれるものとの沈黙の対峙、それは空間と時間の共通性と肉体性と精神性の対峙でもある。顔という外側から内側への省察、それは描くものと描かれるものとの一日間のコミュニケーションであり、その過程を彼は牛を解体する時の牛の体に落ちてくる刀に例えている。そして、それが北京の今日美術館での個展のテーマになっている。

現代アート作品が段々と巨大化していく中で、同じサイズの肖像画を黙々と描き続ける童氏。彼の荘子の思想に対する理解、しいては東洋的美学から来る「虚空」「無」から西洋絵画のフランシス・ベーコン風の精神性への切り込みに共通する身体性から精神性への問いかけは、彼の肖像画への深い進化につながる。最もシンプルに描き続ける肖像画は、単純なライブペインティングではないが、ある意味アクション・ペインティングの境地であり、パフォーマンスとも言える。

コロナ禍での長い三年間を通してわれわれは多くを失った。しかし、失ったものは違う形で、戻ってきているのではないかと彼は語る。それは逆境や多くの悪い体験から得られる冷静な悟りだ。

髭を伸ばし、帽子を被り、常にリラックスした態度で上質な天然素材のゆったりした服を纏っている童氏の姿は、飄々とした仙人の風格さえある。

photo by Bob Krieger

彼にとって、顔は肖像であり、表面である。それを描くことにより、内面を描き、本質を捉え、自然の本質に回帰する。あるいは絵画の原初の形と本質にも回帰するというのが、自分の絵画に対する解釈だ。

今更ながら肖像画は古い形式で時代遅れではないかという批判が多い中、壁一面にずらっと並ぶ様々な人々の顔は迫力満点だ。

数多くの国家首脳、100人近い各国の美術館館長、そして自分と関係性のある農民やお茶を摘む人など、様々身分の違う者たちの顔が放つオーラ、壁に同様に同居するパワフルな人物の人間としての「薫り」が今にもプーンと伝わってきそうだ。そして話しかけてきそうだ。笑い、怒り、すすり泣きし、崩れていきそうだ。そう、その一人一人が個性の違う、違うストーリーと愛と恨みを持った一人一人なのだ。

人々は見られると自己防衛のために、見えないマスクを被る時も多々あるが、注意深く観察すると、喜怒哀楽は顔に現れる。そして、表情だけではなく様々な形で漂ってくる。断然、人には見えない色や角がある。

彼の肖像画を解読するのは簡単な作業ではないが、他人の評価や判断に委ねず、自分の目で世界を眺めることが重要だ。具象的な肖像画はシンプルな形でありながら、とても現代的だ。そして肖像画は観客に語りかけ、対話しているのだ。

彼は2001年の上海APECメイン会場のアートディレクターを務め、その後も2016年のG20杭州、2017年の厦門サミット、そして2018年からは輸入博覧会のアートディレクターも務めている。これは中国の国家プロジェクトのアートへの重視が垣間見える。

洪欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。