新中国の平和のあゆみ 第5回
「家族」のように思いやる日中関係を目指して
石田隆至 上海交通大学副研究員

 

山邉悠喜子が乳児を抱えて夫とともに帰国したのは、敗戦から8年後の1953年だった。生活基盤はなかったが、「これさえあれば生きていける」と思える「ただ一つの宝」があった。人民解放軍で得た「人民こそ国家の主人公」「為人民服務」という民主主義の精神がそれである。どんな相手とも家族のように幸せも悲しみも分かち合い、大切にする――そうすれば日本でも、戦前とは異なる居心地の良い平和な社会を作り出せると考えていた。

民主化の進む日本なら、新中国と同様に職場や地域での男女平等は当然だと思っていたが、「子持ちの女性には、簡単に仕事は見つからな」かった。解放軍で同志だった夫やその家族からも女性蔑視が感じられ、「旧社会から脱却していない日本」に苦しんだ。定住先近くには米軍基地があり、我が物顔で君臨していた。敗戦国の悲哀というより、「自国の尊厳を忘れて迎合」していると映った。帝国主義に勝利し、誇らかに民主国家建設を進める中国との落差を感じた。解放軍からの帰国者と共に行動をと感じても、生活に余裕がなく集まる機会さえ僅か。米国と共に共産圏封じ込めを図る日本政府に対して「怒りながらも座視傍観している自分に憤りを覚えた。また私はあの時代と同じ統治者の側にあって傍観しているのか?では私に何が出来る?」自分を特権的な位置に置かず、再び過ちを繰り返しかねない日本社会の一員だと反省的に捉えるのも、解放軍で学んだ姿勢だ。中国に帰って学びたいと思うようになるのに時間は掛からなかった。

新中国からの帰国者には70年代でも警察の監視が続き、組織活動も難しかった。山邉は50歳で退職し、「年来の望み、中国へ過去を知る為の旅に出た」。転機となったのは、80年代半ばに日本語教師をしていた長春で見た壁新聞と市民の反応だった。731部隊での残虐な人体実験を題材にした森村誠一『悪魔の飽食』の記事に、黒山の人だかり。解放軍時代にその悪業を「小耳に挟んだ」ものの、同書を「事実の記録としては捉えられ」ず、「戦時中の怪奇小説ではないか」「幾ら事実でも日本人がそこまでやるか?多分に中国側被害者の思い過ごしではないか?」と感じた。しかし、周囲の市民は、皆一様に「聞いたことがある、あのときの日本人ならやりかねない」と話していた。自分だけが半信半疑だったが、頭から離れなくなった。解放軍時代に垣間見た侵略の爪痕や被害民衆の苦悩に迫ることが日中関係に不可欠だと直観していたのに、それを直視できない自分に苛立ちを感じたからである。

被害者の声にじっと耳を傾ける山邉(左から3人目)

 

翌年に帰国すると、森村の著作を貪り読んだ。そこに描かれた被害者は、抗日戦を戦った解放軍の戦友そのものだった。加害の歴史や民衆の苦悩をまったく分かっていなかったと気付き、根本から学び直そうと、731部隊跡地からほど近い黒龍江大学に63歳で入学した。中国語の勉強の傍ら同部隊罪証陳列館へ通い、当時の韓暁館長に同行して被害の実態調査に加わった。出会った被害者遺族は731部隊に連行された家族の消息を90年代でも必死に探し、「一日千秋の思いで帰りを待って」いた。彼らにとって戦争は終わっていなかったことに気付かずにいた自らを恥じ、遺族と共に公文書館を訪ねて証拠史料を探し歩いた。同部隊に抗日戦士を連行した元日本人戦犯による遺族への謝罪にも同行した。

731部隊のの被害者に謝罪した元戦犯・三尾豊(左)と共に

 

同じ頃、東北三省の歴史研究者による戦跡調査にも参加。なかでも遺棄毒ガス弾の被害は深刻で、「一生完治は望めない」との絶望から自殺に追い込まれ、介護する家族の人生も破滅させた。「侵略戦争の犯罪の底知れぬ深さに震え」、幸せなはずの日常を奪われた人に何ができるか考えた。

1992年に東北三省での戦跡調査に参加(前列中央中腰)

 

それ以降の山邉の歩みは一気呵成だ。1993年には日本各地で30万人の見学者を集めた「731部隊展」の準備に携わる。95年からは731部隊や毒ガス弾の被害者を原告とした戦後補償裁判を支援した。部隊跡地の世界遺産申請では、単に保存するだけでなく「日本から興味を持つ学生を集め、日中の若い研究者を育成し、永遠にこの地を反省と平和の砦に」する構想を提起した。2000年からは中国東北部など侵略戦争の爪跡を巡るスタディツアーを仲間と立ち上げ、日本の市民が被害証言に耳を傾ける機会を作った。長い間探し続けた同部隊の証拠史料が発見されると、監修を担当して2001年に出版した。被害者の苦しみを自分の「家族」のそれと受け止めた行動は、民間人にできる戦争責任と平和構築の実践でもあった。

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戦後の中国各地で侵略戦争の痕跡や被害者の苦悩を垣間見、対等で温かな建国期の社会関係に平和への希望を見出した山邉でさえ、〝日本人はそこまで悪いことをしない〟という独りよがりな民族観に囚われていた。認めたくない加害の実像が真に迫ってきたのは、目の前の人の苦しみに「家族」として向き合えた時だった。「知っているようで、全く知らなかったのだと驚いた」。〝相互理解〟〝ナショナリズムの克服〟は、人々の苦しみや悲しみを自分のそれとして受け止めることから始まる。

これは、連載の前半で見てきた日本人戦犯の経験に重なる。収容直後の戦犯も、侵略戦争の中で蛮行を犯した事実を直視できないほど、徹底して主体性が奪われていた。だからこそ、戦犯管理所で尊厳を重んじた扱いを受けると、封じ込めていた人間性が刺激され、共に生きようという信頼のメッセージとして受け止めた。それでも罪を認めるのは苦しい経験だったが、被害者の憎しみや悲しみを感じ取れた時、葛藤を乗り越える支えとなった。山邉は解放軍での分け隔てない思いやりに包まれ、後に被害者の苦悩と平和への願いに自ら触れて、不可視だった現実に気付けた。彼らは、戦犯あるいは加害国の一員としてではなく、「家族」として扱われたのである。

現在の日本社会でも加害認識が薄れ、それを否認する言説が大手を振っている。侵略かどうかにさえ曖昧なのは、建国期を体験した日本人の当初の姿と重なる。1972年の国交回復時や90年代以降の遺棄毒ガス弾の処理過程には、怨嗟に根差した平和への希求が込められている。日本社会はそれを「家族」として受け止められているだろうか。

(本連載は「山西抗日戦争文献捜集整理与研究(19KZD002)」の成果の一部である。)