王 敏 在日華人学者、文化研究家、教授
周恩来が日本に残した平和遺産を忘れてはならない

王敏

翻訳家、作家、文化研究家である王敏教授は、複数の名門大学で客員教授を、複数の研究機関で研究員を務める。さらには、「日本初の華人文学博士」、「日本における周恩来研究の第一人者」、「日本の天皇に初めて現代東アジアの文化交流について紹介した中国人学者」等の輝かしい肩書・キャリアをもつ。

2022年は幾重にも意義深い年である。中日国交正常化50周年であり、王敏教授の来日40周年にも当たる。われわれは、中日文化交流の最前線にある王敏教授を取材した。

周恩来が残した平和遺産は
中日両国国民共通の財産

「1972年の中日国交正常化までの過程においては、中国には日本文化に精通した董必武、廖仲愷など多くの優れた人物の存在がありました。中でも最も影響力を発揮したのは、言うまでもなく周恩来総理です」。従って、周恩来をより深く知ることによって、日本社会は中国への理解を深め、また中国が日本への認識を縦横に広げていき、中日友好の現代的価値と意義を再認識することができよう。王敏教授が長年「周恩来の日本留学の平和遺産」を研究テーマとしてきた意義もそこにある。

1977年、王敏教授は大連外国語大学を卒業した。同大学は周恩来の提唱によって設立された大学であり、彼女が周恩来研究に情熱を注ぐに至った原点ともなっている。卒業後間もなく来日し、更なる研鑽に励んだ王敏教授は、宮沢賢治の研究に着手する中で、周恩来が日本に残した文化遺産や平和遺産を知り、「周恩来と日本」を研究テーマに定めた。

研究を進めるうちに、1910年代の日本は西洋思想を理解する窓口であり、周恩来は「求新」の理念を胸に、「大同の世の実現」のために日本に留学したことを知った。周恩来の日本留学中の日記には、「進化の道に沿って、『大同の世』という理想に最も近く最も新しいことを行おう」と記されている。日本留学は周恩来の対日外交観に大きな影響を及ぼした。

「大同」の理想は、『礼記』(周王朝末期から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書物)にあり、「小康」(ややゆとりのある)の次の段階とされる。中国共産党はこの100年、一貫して人民の幸福を追求してきた。「中国の伝統文化を基盤として、中華民族の信念に立ち、中国の国情をマルクス主義思想の基本原理と結び付ける」ことが、党を常に勝利へと導き、旺盛な生命力を維持するための根本である。周恩来が日本留学で残した平和遺産は、今日の中国にとっても重要な指導性を帯びている。

数年前、静岡に住むある夫妻が子息を伴い、東京の王敏教授のもとを訪れた。「立派でハンサムなご子息は、『周』さんというお名前でした。ご両親が周恩来のファンであったことから、私のファンにもなってくださったということでした」。些細な出来事であったが、今も記憶に新しいと語る。周恩来の平和遺産が、日本で代々受け継がれていることを知り、自身の使命の大きさを再認識したのだという。

王敏教授は1982年に日本に留学してより文化教育の最前線に立ち、日本の大学生や文化界と緊密な交流を続けてきた。彼女は、中国文化に関心をもち、専攻している日本人学生であっても、現状認識と書籍知識との間に「時差」があることを認めざるを得ないと率直に語る。一方で、いまの若者たちは政治に無関心で、日本の現職の首相が誰であるかさえ意に介さない。中日の国交が正常化された当時の田中角栄首相や大平正芳外相については言うまでもない。だからこそ、「周恩来が日本に残した平和遺産」を研究することには深い意義がある。

中国の伝統文化は日本の
民間交流の重要な紐帯

王敏教授の来日当初の研究対象は、大正時代の詩人で童話作家の宮沢賢治であった。彼女は、中国で広く伝わる孫悟空の伝説が宮沢賢治の創作のインスピレーションになっていたことを考察・追求した。宮沢賢治は、仏典を求めて天竺を目指す物語を自身の創作の源泉とし、片手に『西遊記』、片手に『世界地図』を持ち、故郷の岩手を漫遊して感動的な童話集を誕生させた。宮沢賢治研究によって、王敏教授は若くして「日本初の華人文学博士」となった。

また、王敏教授は優れた翻訳家として『西遊記』、『三国演義』、『紅楼夢』等、中国の古典名著を日本語に翻訳している。これらの書籍は再版を繰り返し、日本社会に幾度となく中国文化ブームをもたらした。

河川が多く、降水量の多い日本はしばしば水害に悩まされ、大禹治水の伝説(中国の古代夏王朝の禹王が黄河の洪水を治めた)は日本各地に伝わる。『西遊記』には、大禹治水に使用された道具について記されている。孫悟空が東海龍王(四海を治めるとされる四人の竜王の一人)の宮殿で手に入れた如意棒である。後に、王敏教授は孫悟空の伝説と大禹の伝説が日本でどのように伝わったかを研究テーマとした。

ある時偶然、神奈川県開成町に300年前に「治水神」大禹を祀った石碑が残っていることを知った。碑文は江戸時代中期の儒教学者・荻生徂徠が監修したものである。地名の「開成」は、中国の『易経』に由来している。王敏教授は、大禹の伝説が残る地域が連合して、文化の力で地域振興を図ってはどうかと大胆な提案を行った。2010年、大禹の遺跡が発見された18の市町村が集結し、第一回大禹文化祭が開催された。当文化祭は、コロナ禍前まで途切れることなく開催されてきた。今では関連の市町村は165を数え、2014年には「治水神·禹王研究会」が発足した。中日国交正常化からの50年、中日民間交流を促進し、文化の価値を発揚してきた王敏教授は、次の50年に向けて歩みを進める。

漢字文明は中日友好の
確固たる基盤

2007年、王敏教授は招かれて明仁天皇ご夫妻に招かれて、現代東アジアの文化交流についてレクチャーを行った。天皇ご夫妻とは、その後も数度親しく懇談する機会を得ている。皇居に赴き天皇に時代精神を語ることは、一般人には考えられない栄誉である。「東アジアと中国の文化交流」という壮大なテーマを前に、何から始めればよいのか、不安に駆られたであろう。「陛下から答えられない質問をお受けした時には、正直に『わかりません』とお答えするしかないでしょう!」と話した。

明仁天皇ご夫妻はご高齢でもあり、時間が長くなってお疲れではないかと、侍従がお茶を2度提供した。ところが思いがけないことに、報告内容に興味をもたれたご夫妻は、侍従に直接「お茶をもう一杯いただけませんか」と声をかけられたのだという。

「中日両国人民は数千年の漢字文化の継承者であり、漢字文化圏の知恵と文明の精髄を体現している」――これは、王敏教授が日本の天皇と間近に謁見し語らいを重ねる中で得た結論であり、長年周恩来の平和遺産を研究する中で実感したことでもある。そして、それは中日間を頻繁に往来し、文化の絆をより緊密に、より堅固にせんとする学者の歴史的責任感でもある。

王敏教授は中日国交正常化50周年の記念活動の一環として、教養ドキュメンタリービデオ『日本を翔けた星々 百年前の日本留学』、及び書籍『穿越日本的“大同”』の企画、アドバイザー、解説を担当した。本年4月5日には、最新刊である『周恩来と日本』が出版された。

清明節に新刊を出版したのは、本書が、周恩来が日本留学中に嵐山を詠んだ2首の詩のテーマ及び構想の地を考察し、周恩来の対日民間外交思想の原点を緻密かつ的確に突き止めたからである。『雨中嵐山』と『雨後嵐山』の2首の詩が詠まれたのは1919年の4月5日である。103年前に詠まれた『雨中嵐山』の詩碑は1978年の「中日平和友好条約」締結を記念して、友好団体によって嵐山の亀山公園に建てられた。『雨後嵐山』の詩碑は、中日国交正常化50周年を記念して、本年4月5日、嵐山の大悲閣千光寺の境内に建てられた。

平和発展に尽くした先人たちの知恵を伝承するため、王敏教授はさらに、科学研究という学術の力を社会の発展と人々の生活の安定に役立てることを目的として、一般社団法人周恩来平和研究所を設立した。

取材後記

来日40年の王敏教授には多くの著作がある。専門書、共著、翻訳作品と、数えあげればきりがない。王敏教授は言う。「今日に至るまで、もしも私の成果と言えるものがあるといえるならば、それは、宮沢賢治というひとりの日本人が私を啓発し、日本における中国文化の源流に気づかせてくれたことにつきます」。発展の段階は異なるが、中日両国は今日まで2000年以上にわたって、お互いの文化を学び合い、共鳴し合い、受容し合い、高め合ってきた。国交回復から50年間積み上げてきたプラスのエネルギーが、次の50年も光彩を放ち、中国と日本が仲睦まじく栄えゆくことを願いたい。