藤 文浩 株式会社日本美協オークション社長、鑑古堂創始者
銀座の目抜き通りで中国文化を発揚する古美術商

明治維新以降、最も多い時で150を超える美術品専門店が軒を連ねた東京・銀座の京橋は、日本有数の骨董通りとして知られている。本年4月1日、銀座の目抜き通りに、コレクターでオークションバイヤーである在日華人・藤文浩が経営する古美術店『鑑古堂』がオープンした。先ごろ、『鑑古堂』の創始者である株式会社日本美協の藤文浩社長を訪ね、日本のコレクション・オークションシーンに躍り出た華人の物語を伺った。

創業、独立、開拓の30年
三代に渡り中国文化を発揚

藤文浩を知るには、まず、彼の生い立ちと留学の経歴に触れなければならない。藤文浩の中国文化に対する尋常ならざる情熱は、母親の胎内で受け継がれたものである。

母親の祖先は、徽墨(名墨として知られる中国安徽省徽州府産の墨)四大家の一人、汪近聖である。汪家の老舗ブランドである『鑑古斎』は、清の朝廷に献上された御墨と言われている。

翰墨の芸術的魅力、色彩と香りは、時代が変わっても衰えることはない。定年退職後、芸術への情熱を手放すことができなかった母親は、上海で骨董店を始めた。

時が流れ、代々家に伝わってきた物の多くは失われてしまったが、『鑑古』の名号だけは母親によって大切に継承された。母親は骨董店を『鑑古堂』と名付けた。さほど大きな店ではなかったが、上海のコレクターの間では、名品が多く、客足の絶えない、本物を扱う名店とされた。

藤文浩は知らず知らずのうちに影響を受け、幼い頃から芸術品に親しみ、コレクターとしての素養を育んだ。20数年間、文房四宝、宮廷美術品、陶磁器など、溢れんばかりの名品を目にし、数千年の歴史が育んだ文物に囲まれて育った娘は、当然のごとくアートコレクションの知識に秀でていった。

彼女は日本の立教大学を卒業後、更に英国で研究を深め、帰国後、父親の力を借りることなく日本の著名なオークション会社に就職し、期せずして父親と同じ道に進んだ。

娘の選択は、自身が長年中国文化を広め、文物の還流に努めてきたことに対するひとつの答えとも言える。藤文浩は深い感慨を覚えるとともに、娘が父親の自分を超えて、この分野で仕事を成し遂げ、歴史ある『鑑古』の名号を海外に知らしめ、より輝かせてくれると信じている。

1988年、藤文浩は如何なる後ろ盾もなく日本に留学し、古美術店を開き、日本のトップレベルの古美術商圏に足を踏み入れ、オークション会社を設立し、現在に至るコレクション、オークション、鑑定の3つのフィールドを着実に形成した。藤文浩は自身が創業、独立、開拓に奔走したプロセスを10年毎の3期に分類する。

はじめの10年は草創期である。日本に留学して4年目の1991年、初めてコレクションに関わる機会を得て、古美術店を開業した。店舗は大きくはなかったが、名品が少なくなかった。

彼は学業とアルバイトを両立しながら、懸命に日本国内に散在する中国の文物を収集した。文物に関する知識を少しでも増やし、できるだけ多くの本物に触れるために、全てのエネルギーと財力を費やしたいと思った。

この勤勉で研究熱心な中国人留学生に、日本の古美術業界の長老が目を付けた。伝統文化に対する強い関心と洗練された眼識をもつ2人は、年齢差を超えて初対面ですぐに打ち解けた。

大先輩は慣例を破って藤文浩をコレクター界のトップクラスの仲間の輪に引き入れ、さらには業界の重鎮である坂本五郎氏に引き合わせてくれた。坂本五郎氏の厚意により、藤文浩は中国人として初めて、格式ある日本の美術俱楽部內部会の会員となり、『鑑古堂』が飛躍的発展を遂げる契機となった。

藤文浩は、何の後ろ盾もない外国人留学生である自分が、格式ある日本のコレクション業界に足を踏み入れることができたことに増長することなく、より熱心に美術品鑑定の腕を磨いた。

テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』の鑑定士が、日本の有名な古美術商を率いて全国巡回展示即売会を開催した際には、藤文浩と『鑑古堂』も参戦した。

間もなく、主催者は、展示即売会に参加した多くの古美術商の中から『鑑古堂』の潜在力を見出し、渋谷の百貨店内にある有名なアートサロンで『鑑古堂』の個展を開いた。藤文浩はアートコレクション業界で大器の片鱗をうかがわせ、経験と資源を蓄積しながら、順調に事業拡大の次の10年へと歩みを進めた。

第2の10年は開拓期である。藤文浩はニューヨーク、ロンドン、香港のオークションに頻繁に出掛けて見聞を広めるとともに、果断に行動しコレクションを充実させていった。山中商会が手掛けた『清代恭王府旧蔵商周銅器』、『康熙五十五年御製古銅編鐘重器』など、子々孫々受け継がれるような珍宝を次々と落札していった。

第3の10年は成熟期である。2011年3月、日本の東北地方でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、しばらくの間、人びとはパニックに陥り、様々な噂が広まった。業界の大手をはじめ多くの日本企業が東京からの避難計画を立て、在日華僑は次々と帰国した。

地震発生当時、中国では日本観光ブームが巻き起こり、中国人コレクターは海外に流出した文物に注目していた。中国の伝統芸術一筋に歩んできた藤文浩の胸中には、中華民族の誇りが激しく波打ち、震災後、多くの不安定要素がある中、決然と困難に立ち向かった。

2011年6月、藤文浩は、芸術品を扱うオークション会社・株式会社日本美協を設立し、次の10年への布石を打ち、海外に中華文明を広め、海外に散在する文物を還流することを生涯の事業とする意思を固めた。

創業当初、日本美協は毎年春と秋に新宿NSビルでオークションを開催した。精妙な解説、確かな腕を持つ常駐の専門家、歴史的価値と文物的価値を兼ね備えた美術品によって、日本美協は確かな信頼と名声を得ていった。

2018年、日本美協の創業8周年を記念するオークションが、東京・台場のシェラトンホテルに会場を移して開催された。成約数、来場者数ともに過去最高を記録し、日本の業界に大きな衝撃を与えた。

成功への「3つの切り札」

日本美協は2011年の設立以来、時宜にかない、環境や人脈にも恵まれて、順調に事業を拡大してきたと言えよう。

しかし、2020年に発生した新型コロナウイルスパンデミックが、世界の足取りを変えた。業界においても、アートオークションはオンラインに移行していった。

ところが、通常の商品とは異なり、美術品は文物としての価値を有し高額であるため、購入者には熟慮が必要である。では、コロナ禍の中、日本美協は如何にしてオンラインで購入者の信頼を勝ち取り、モデルチェンジを成し遂げたのだろうか。「3つの切り札があります!」と、藤文浩は微笑んで自信たっぷりに記者の質問に答えた。

第一に、美術品の出所の特定である。日本美協は創業からの10年間、安定的に信頼関係を築き固定客を獲得してきた。日本美協の美術品は高品質で、保存状態が良く、稀少性が高いというのが、コレクター達の共通認識となっている。

先ごろ、日本美協は東京美術倶楽部の先輩の薦めで、三菱財閥が所蔵する一組の古代中国の珍品を入手した。この一件で、日本美協の美術品の出所の確実性、由緒ある逸品と本物へのこだわりが再び証明された。

第二に、専門家との緊密な連携である。日本美協は、数十年の実務経験をもつ著名な美術館や博物館の研究員を招聘している。2019年秋のオークションでは、徳川美術館の研究員立ち合いの下、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の秘蔵品である文房四宝の落札に成功した。

徳が高く人望の厚い専門家には威信があり、その言葉には重みがある。彼らの解説が裏付けとなって、オークション品への信頼度は高くなる。コロナ禍にあっても、日本美協の成約数に大きな減少は見られない。この成果は、業界の日本美協の美術品及び藤文浩と彼のチームに対する評価の表れである。

第三に、業界のプラットフォームとの綿密な連携である。コロナ禍は日本美協の業績にも大きな打撃を与えた。国際間の人流と物流が断絶し、これまで大きな取引をしてきた多くの顧客は、直接会場に足を運べなくなった。

しかし、藤文浩が率いる日本美協はこれにも素早く対応し、世界の動向に足並みを揃え、オークションをオンラインで開催するとともに、国内外の有力なアートコレクションやオークションプラットフォームを利用して、オンラインでの活動を展開した。更に、専門家による講座を開設し、芸術と中国文化の魅力を発信し、コロナ禍収束後の事業展開に備えている。

京橋鑑古堂を世界の古美術愛好家の憩いの場に

他のコレクターと同様に、藤文浩もかつて、勉強と宝探しのために頻繁にニューヨークへ出掛けた。そして、古美術愛好家たちが、巡礼気分でニューヨークの五番街や、100年の歴史をもつ古美術商が店を構えるロンドンのチャーチストリートを歩く姿を何度も目にした。そして「中国人はいつになったら世界の有名な骨董通りに店をもつことができるのだろう」との思いを募らせた。

藤文浩は、コロナ禍の中で、地価の高い東京で開業することに、何のためらいもなかった。

ピンチはチャンスである。「日本美協のオークション事業は順調です。しかし、オークションが開催されるのは1年の内の一定期間で、ターゲットは専門知識をもつプロです。芸術と文化の普及という面から考えれば、展示館や店舗にはかないません」。

『鑑古堂』は、少し歩けばいくつもの古跡と出会う、京橋二丁目5番1号に位置する。店舗の後ろには、ゴッホに影響を与えた浮世絵の巨匠・歌川広重の故居があり、交差点の対角には『江戸歌舞伎発祥の地』がある。

藤文浩は100年以上の歴史をもつこの骨董通りの店舗でお客様を迎え、日本社会と世界中の芸術愛好家に、中国の文物と中国文化を伝えたいと願っている。

鑑古堂京橋店のオープンと同時に開幕した「The Fantastic Metal Works」展は、各地から多くのゲストを迎え、名だたるコレクターたちが談笑する中、成功裏に幕を閉じ、店舗は幸先の良いスタートを切った。

「今日までを振り返って、成功したとは言えませんが、誰に感謝しているかと問われれば、何より、深く悠遠な中国文化だと答えます!」。中国文化を継承する『鑑古堂』は今、国際化、ブランド化の道を歩んでいる。

取材後記

取材は正午近くまで続き、ガラス窓からは強い陽光が差し込んでいた。通りを挟んだ対面にある『京橋エドグラン』を眺める藤文浩社長の姿は自信に満ちていた。この街は明治維新に立ち会い、関東大震災から復興し、コロナ禍にも立ち向かってきた。

「コロナ禍はやがて収束し、近い将来、京橋は再びアートコレクションの聖地として、世界中の愛好家や専門家を魅了し、彼らは京橋を訪れる時、必ずや華人が経営する古美術店『鑑古堂』を尋ねることでしょう!」。

別れ際、藤文浩社長は記者に語った。「私にはもうひとつ夢があります。『鑑古堂』が中国本土、台湾、香港、アモイの同胞たちが集い語らう、東京での憩いの場になることです」。その言葉には、心に響くものがあった。