アジアの眼〈42〉
「危険な境地に敢えて踏み込む覚悟が必要だ」
――巨匠・薩摩焼 十五代沈壽官

真夏日の鹿児島で薩摩焼十五代沈壽官を取材してきた。窯元の敷地内には、沈家の歴史が垣間見られる史料館、十五代目の作品展示室、工房、美しい日本庭園がある接客の間、売店、茶寮が揃い、何よりも登り窯があった。彼は、大韓民国駐鹿児島名誉総領事にもなっていた。1

十五代沈壽官は、薩摩焼の宗家として名高い沈壽官窯の当主・十四代沈壽官の長男として生まれる。幼い頃から、父に感化され薩摩焼をはじめ、広く陶芸に親しむ。

1983年に早稲田大学を卒業後、京都市工業試験場と京都府立陶工高等技術専門校を修了した。海外では、イタリア国立美術陶芸学校ファエンツア校専門科を修了したのち、韓国京幾道金一萬土器工場で修業を重ねた。

1999年、沈壽官家400年の歴史の中で、初めて先代(十四代)の存命中に、十五代沈壽官を襲名することになる。そのわけは聞きそびれたが、敢えて次回会うときの質問に取っておくことにしよう。

薩摩焼は、400年余の歴史を持っている。慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代沈当吉がいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝四代世宗大王の昭憲王后を始め、領議政(国務総理)九人、左議政、右議政(副総理)を四人も排出した名門である。

薩摩の島津義弘によって連行された朝鮮人技術者たち(製陶、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等)は、見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を生きる糧として、生きて行かねばならなかった。陶工たちは、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を作り出したのである。それらの焼き物は、薩摩の産出の土を用い、領主島津家をはじめ、薩摩土着の人々の暮らしのために作られた地産地消のものであり、それらを「国焼」(くにやき)と呼ぶ。

以来、沈壽官窯は、島津家の厚い庇護のもとに、研鑽を重ね、多彩な陶技を尽くした名品の数々を、次々と世に送り出す。特に、その品格と美しさから、島津家の調度品や朝廷への献上品として、特別に珍重されたのは「白もん」と呼ばれる白薩摩だ。明治6年(1873年)には、12代沈壽官がウィーン万国博覧会に大花瓶を出品し、薩摩焼沈家の陶磁器は、一躍日本を代表する芸術品として、世界的に絶賛を博すことになった。十二代沈壽官は透かし彫り(すかしぼり)、浮き彫り(うきぼり)の技術で明治18年(1885年)の農商務卿である西郷従道より功労賞を受けた。明治26年(1893年)には、アメリカのシカゴ・コロンブス万博において、銅賞を受賞した。

明治33年(1900年)にパリ万博で銅賞を受賞し、翌年には産業発展の功労者として緑綬褒賞を受賞した。さらに、明治36年(1903年)に、ハノイ万国博覧会において金賞を、続く明治37年(1904年)にはセントルイス万博にて銀賞を受賞した。

十三代、十四代も沈壽官を襲名し、十四代は昭和43年(1968年)10月に司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公として登場した。現在も、沈家の資料館には、司馬遼太郎氏の書が掛けられている。

昭和43年(1970年)大阪で開かれた万博に白薩摩浮彫り大花瓶を出品し、好評を博す。十四代目は、平成元年(1989年)には明仁天皇陛下より、日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。また、平成10年(1998年)に行われた国際的なイベント『薩摩焼400年祭」の成功により、金大中大韓民国大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受賞した。

薩摩焼沈壽官の歴史は、万博と縁が深い。由緒正しく先祖代々受け継がれてきた一子相伝の技、十五代目はその伝統の継承だけでなく、早稲田大学に学び、イタリア、韓国での勉学を通して、数多くの専門的な技術だけではなく、世界を見てきた知性をも備えるバランスの取れたアーティストであり、経営者であり、哲学者でもある。

インタビューの最中、過去と未来について語る際の十五代目は、まさに「哲学する職人」だった。登り窯に入れて焼き物を製作する過程は、「危険な一歩を踏み込む覚悟」が必要であり、失敗だらけの試行錯誤により、少しずつ逐次にアップデートしてきたことを、きちんと理論づけできる知性に富んでいた。自分の言葉で、真摯に述べる眼差しのパワー。エナジーをいただいたような気がする。

しっかり分業化された約30人体制の工房。工房の一人一人の薩摩焼に対する熱愛度で言うと、自分はきっと最後列だろうと断言する。謙虚な人格者でもある。

失われた技術の復活と技術者養成プログラムの確立は、沈壽官窯がその規模とレベルを保持してきた大きな要因ではなかろうか。三十代の若さで沈壽官を襲名した理由が自ずとわかったような気もしてきた。

しっかりした技術を学び、世界を見て来た若きイノベーター、十四代沈壽官は、その彼に託したいものがあったのではと思えた。

登り窯の話題に触れた際には、先代の窯を保存すべきだったと悔やむ彼の姿には、「親孝行」の「孝」の伝統と「心」が見えた。沈家の長い歴史から学んだ脈々と引き継がれた資料館の歴史は、少年一輝君2がのぼり窯の日には学校を休み、こういう時には走って水を取って来るとか、ここではこの道具を渡すとの、いわば「体に染みた現場での覚え」があり、沈家の長男として生まれた一人の「男」としての宿命への受け入れと覚悟があった。

インタビューの最後に写真撮影した庭には白い梅と赤い梅が植えられている。木製の縁に座り、写真撮影をしていたら、春先にこの庭で咲き誇るだろう白梅と紅梅の香りが漂ってきそうな、そしてその紅白の花弁がひらひら舞う庭で花酒を交わす場面を想像してしまう。

コロナ禍が猛威を振るい、ほぼ二年にわたる窮屈な日常が続く中、この美山のお庭で日向ぼっこをした、瞬間のメモリーは、いつまでも記憶に残りそうだ。

万博と縁が深い沈壽官窯の歴史、来る大阪万博で何か企画したい衝動に駆られる。最も価値あるものは、長い歴史で受け継がれる伝統ではない。その伝統を大胆な変革と知恵で守り抜き、誇るべきルーツを次世代にもバトンタッチすることだ。どんな小さい発見も、歴史を動かしてきたはずだ。

注1)日本には3人ほどいるらしいが、その中の一人であり、十五代目も先代に続き、同名誉総領事に任命されている。

注2)十五代沈壽官の本名は大迫一輝。

 

洪 欣 プロフィール

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。