アジアの眼〈38〉
この世は、案外幸せだらけだったりするかもしれない
——日本を代表する映画人、世界が認める監督 岩井俊二


photo by makoto Sasaki

4月の初めに都内のとあるホテルで岩井俊二監督を取材した。

岩井俊二ワールドにどっぷり浸った取材前の2週間だったが、やはりご本人に会ったら思ったほど良い質問もできず、悔いが残りそうだと思いながら原稿に向かっている。

岩井俊二監督は仙台生まれの映画監督・小説家・脚本家・音楽家である。脚本家としてはかつて網野酸というペンネームも使用しており、個人としても若い頃にはいろんな名前(注1)を使い分けしていたが、近年は著作権等の関係上名前を一つにしているらしい。

数々の名作を世に送り出している岩井監督は、コロナ禍を経験した2020年も歩みを止めることなく、1月に『ラストレター』を公開する。『ラストレター』には、かつて1995年に『Love Letter』に出演していた中山美穂と豊川悦司も出演し、話題を呼んだ。7月には『8日で死んだ怪獣の12日の物語―劇場版―』を、そして9月には中国版ラストレター『チィファの手紙』(注2)を公開している。この映画は、岩井俊二監督の中国映画第一作として中国の映画ファンを興奮させ、中国の映画賞金馬奨を受賞した。


photo by makoto Sasaki

1995年に『Love Letter』で映画監督としてキャリアをスタートさせた岩井氏の代表作には『スワロウテイル』『四月物語』『リリイ・シュシュのすべて』『リップヴァンウィンクルの花嫁』が挙げられる。

中でも初の劇場用長編監督映画作品『Love Letter』は第19回日本アカデミー賞の作品賞を受賞した。

『四月物語』では、桜吹雪が舞い散る冒頭の入学シーズンの描写、松たか子演じる旭川から東京に上京してきた大学生・卯月の引越し場面。そしてエンディングの赤い傘を借りる場面の名シーンは岩井俊二ワールドのピュアで切なく、そして何よりも「これでいいです」「これがいいです」という日本語でしか表現しきれない繊細な言葉の使い分けが、映画ファンの心を掴む。エンディングで語る「愛の奇跡」、それはやはり岩井俊二ワールドの青春映画に欠かせない要素だと言っても過言ではあるまい。

『花とアリス』と『花とアリス殺人事件』は、実写版とアニメ版として作られているが、実写版に出てくる主演の俳優たちがアニメ版では声優を務めているのが評判を呼んだ。実写版とアニメ版を両方ともこなせることは容易ではないが、大学では絵画を専攻にしていた彼にとって、絵画性が強調されるアニメはやりたかったことであり、得意とする分野でもあるという。アニメ映画監督だと、ヨーロッパでは思われるぐらい、アニメ版も充実している。


ⓒ2018 BEIJING J.Q. SPRING PICTURES COMPANY LIMITED WE PICTURES LIMITED ROCKWELL EYESINC. ZHEJIANG DONGYANG XIAOYUZHOU MOVIE & MEDIA CO., LTD ALL Rights reserved.

岩井氏は、映画だけではなくミュージックビデオ(MV)、CF、TVドラマなども手がける映像作家でもあるが、その独特な映像は「岩井ワールド」と称され、日本だけではなく、世界の注目を浴びてきた。大学時代の自主映画の数々を経て、TVドラマにも進出するが、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』でTVドラマでありながら日本映画監督協会新人賞を受賞してしまったという。映画やその他の仕事は、ボリュームがあるにもかかわらず、名作を次々と発表し、世界中に熱烈なファンを獲得している。若い時からヒット作を絶えず発表し続ける凄さは「一鳴驚人」という中国語の諺のニュアンスにピタリと合う。

10年前の2011年に起きた3・11東日本大震災を境目に、アフター311を強く意識する作品世界の中でも、『リップヴァンウィンクルの花嫁』は監督自身も最も良くできていると感じる映画のひとつである。詐欺が横行している厳しい現実の中でヒロインの七海が路頭に迷うほど落ちて行き、度重なる紆余曲折を経て最終的には落ちたところから「成長」を重ねていくことを描く。葬儀屋と二人で一緒に死んでいるはずの二人の屋敷を訪ねていく安室、七海は「生きていた」。七海と二人で訪ねた真白の母親の部屋、裸になって泣き、日本酒を飲みながら泣く二人を横目に、七海はマイペースで飲みながら「生きている」。没主張で無防備に騙されながら生きる「弱いもの」の「強み」、意外に七海は病み細った真白を、あるいはマネージャーもおんぶできるほどの「強さ」も秘めている。それゆえ、騙されながらも「生きている」若い世代の「典型」かもしれない。七海誕生祭5周年のイベントを開催するくらい、共感を獲得し、愛され続けている。リーマンショックと3・11後に深刻化した若者達の貧困化と「詐欺」が横行する社会、それは日本だけでなく世界にも通じる社会問題である。「被害者」の七海も「加害者」の安室も「生きる」ために必死であり、その点ではこの「生きにくい」世の中はどうかしているにもかかわらず、死ぬ前の真白のセリフは、「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」だった。みんなに感謝し、みんなが優しかったと感謝する気持ちを小さな物事に込めて話す。表現したいものはそれだけではないにしても、厳しい現実の中で「弱いもの」に対する岩井監督の応援歌にも聞こえる。


ⓒ日本映画専門チャンネル/ロックウェルアイズ

一方、厳しい現実の中で「死」を迎えるヒロインたち。「死」についての岩井氏の描写は美しい。『PiCNiC』のエンディングのシーン、海辺の夕焼けの中でヒロインが拳銃で自ら「命を断つ」シーン。哀しいながらその散りゆく黒い羽は優美である。『リップヴァンウィンクルの花嫁』のシーンで、花嫁姿で肌触りの良さそうなベッドに横たわり、好きな人の横でそっと「寝るように」最期を迎えるのも美しい「有終の美」であり、「岩井美学」の表れであろう。「死」に対する推奨ではない。ただ、「死」を直視する姿勢なのだ。

たまたまではあるが、『チィファの手紙』の主題曲「姿(中国語、样子)」は、ジョウ・シュンが歌う。MVには岩井俊二監督のピアノを弾く映像が出てくる。朝のジョギングにイアホンで聞いた、その年に最も聞いた歌(注3)だった。そしてこの映画は田舎の映画館で夜中に贅沢に映画館を貸し切って観た記憶がある。

2020年の秋、日本での公開は『ラストレター』の公開に合わせて公開された。日本の劇場に再度足を運んだ。

アフターコロナの世界を岩井監督が如何に表現していくのか楽しみだ。脚本と音楽をほとんど自ら手がける彼の映画は、年齢層に関係なく、文学青年気質の人達の愛してやまないものだ。興奮がなかなか収まらない取材で、自分の表現力の限界を痛感する。

 

注1 フランスのジョルジュ・バタイユを彷彿とさせる多くの名前を持つ天才肌だと思う。

注2 中国語では「你好,之华」というタイトルになっている。中国での劇場公開は2018 年。ジョウ・シュン(周迅)がヒロインを務める。

注3 筆者にはその年、同窓会とせつない物語があったのだ。

洪 欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。