アジアの眼〈35〉
「映画を続けて良かった」
——ベネチア映画祭銀獅子賞受賞監督、巨匠 黒沢清

 
Photo by Makoto Sasaki
 

渋谷駅前のホテルにて、『スパイの妻』で第77回ベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞したばかりの黒沢清監督を取材した。

コロ中禍の中、マスクを付けての取材ではあったが、とてもいい取材になれたのは、幸いとしか言えない。

日本を代表する映画監督・黒沢清の最新受賞作は、2020年6月6日NHKBS8kで放送されたテレビドラマだ。そして、映画として劇場公開された。40年代の歴史編を題材にした珍しい映画で、取材が終わり家に辿り着く頃は日本国内でも受賞したニュースが飛び込んできた。


Photo by Makoto Sasaki
 

黒沢清は兵庫県神戸市生まれで、高校時代から自主映画を制作し、立教大学では蓮實重彦に師事する。1981年、「しがらみ学園」がぴあフイルムフエステイバルに入選するが、映画世界へのきっかけは相米慎二監督の映画の助監督を務めたことだった。その後、「神田川淫乱戦争」(1983年)で長編監督デビューを果たす。「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985年)や「地獄の警備員」(1991年)などで頭角を現す。1992年にはオリジナル脚本「カリスマ」で米サンダース・インスティテュートのスカラシップを獲得し、渡米する。帰国後、1997年の「C U R E」で世界の注目を集める。以降、「回路」(2001年)、「アカルイミライ」(2002年)がカンヌ国際映画祭に出品することになる。「ドッペルゲンガー」(2003年)「クリーピー 偽りの隣人」(2016年)、「贖罪」(2012年)などホラーの境地を確立する。

脚本、監督をオリジナルで手掛ける黒沢は、映画評論家で小説化、東京芸術大学院映像研究科の教授でもある。

60作品とも言われる作品の量、「質」に拘りながら保つから凄い。日本が誇る世界の名匠、彼が映画の中で表現したいのは一体なんなのか。

1990年にトマス・ハリスの原作小説をもとに1990年に製作された映画「羊たちの沈黙」がある。アンソニー・ホプキンス演じる知性高き医学博士の恐怖、2001年の続編とされる「ハンニバル」も原作小説は同じトマス・ハリス。映画監督はジョナサン・デミだったが、映画俳優アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターや続編のジュリアン・ムーアなどに一般人の注目は集まった。実際、ジョディ・フォスターは「羊たちの沈黙」でオスカーの主演女優賞を獲得した。ジョナサン・デミの監督名やリドリ・スコットの名前はもう少し注目されるべきだと個人的には思うが…。2020年にシリーズ三部作と呼ばれる「クラリス」がレベッカ・ブリーズ主演でジェニー・ルメット監督により製作されている。

この三部作が大物俳優アンソニー・ホプキンスによりスリリングを増幅させ、世界を確立したことに比べ、黒沢清のスリラーは後味がじわじわと反芻してくる監督の世界だ。合わせて、今年公開する最も観るべき映画だったと思われる。

「散歩する侵略者」(2017年)の宇宙人に支配される「地上の凡人」たち、「日常」の細かい事柄から脱出したシュールな異次元のファンタジー。「贖罪」(2012年)で描く「被害者」と「加害者」の逆転、角度を変えれば、被害者は時間軸によっては誰かの「加害者」でもある。「クリーピー 偽りの隣人」(2016年)では、「悪」と「善」の関係性において、「悪」の影響力が圧倒的大きいこと、そして呼び起こされる弱い「善」の崩壊を日常の中に描いている。日常に近い分、じわっと怖いのだ。

「C U R E」(1997年)では、連続殺人をしている知性高き「犯人」像、性善説か性悪説かとの問いに監督は性善説と答えた。その犯人の「悪の理由」あるいは善悪の基準に対する「麻痺」あるいは「不在」が、「アカルイミライ」(2003年)でオダギリジョーが演じる雄二と浅野忠信が演じる守は、おしぼり工場で働くごく普通の若者たちで、赤クラゲをめぐって展開される物語では、世代間の「衝突」、あるいは価値観の衝突により現れる「基準」の変異、あるいは曖昧模糊さ、「極端にいえば、一人ずつ他人のことはわからないよ。というところにいきつきますね」1 という身近にいる「人」への理解不能への恐怖が我々一人一人の「日常」として表現されている。

映画慣れしていない人は苦手だという。リアルとファンタジーの区別を排除すれば、暗いから目を塞ぎたくなるらしいが、その「理解不能」かもしれない中でも、「集団」の中にいる「個」としての私たちは、「自分探し」「自分との対話」を通してある意味「あきらめ」に近い「受け入れ」を獲得すると思われる。タイトルがカタカナで表示されているのは何を意味するのか。

ウズベキスタンで撮影した「旅の終わり、世界の始まり」は、自分の居場所がどこにあるのか、その危うさに不安がる現代人を表現する。今、所在なさを感じる全ての現代人に「新しい自分」に出会えるかもしれないとの選択肢を提示した力作だ。すでに変化した関係性にしがみつかず、「進化」を続ける黒沢監督の作品世界は常に「新鮮」だ。葉子を演じた前田敦子とはseventh code等三度目の仕事だったが、役所広司、西島秀俊、香川照之、小泉今日子等の俳優陣と仕事を一緒にしても「羊たちの沈黙」のような現象は起きない。まず、黒沢監督作を意識するのだ。

その自分に対するあくなきストイックさから来る飄々としたスッキリした顔をマスクをつけた上からも私は垣間見えた気がする。監督本人に質問しても、影響された文学者や哲学者は特にないと答えるが、映画をみた評論家の文章では、哲学的な分析がニーチェ2等に良く言及される。興味深いミステリアスな世界だ。

中国の監督賈樟柯作品をとても高く評価していた黒沢氏、いつか中国の西の地で監督の力作が完成するのを見てみたい気もする。勝手に楽しみだ。

1 「キネマ旬報」2003年1月下旬号より
2 蓮實重彦の映画評論が雑誌「ユリイカ」2003年1月号に掲載された「善悪の彼岸に」(アカルイミライ評)を参

洪 欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。