アジアの眼〈4〉
こんなに楽しいプロセスを他人に譲ることはあり得ない
―― 抒情リアリズムの代表作家 何多苓

四川省の成都のアトリエで何多岺氏を取材した。バラの花が咲き誇るイギリス風のガーデンにはプールがあり、蝶々が舞い踊り、小鳥がさえずる桃源郷だった。春爛漫な晴れやかな日に、彼はそのガーデンで絵を描きながら取材に応じてくれた。

氏は羅中立氏らと並んでいわゆる「傷痕美術」の代表と言われているらしいが、本人はあまり嬉しくはないと言った。彼の絵は淡いグリーンをベースに、霧かかったミステリアスな風景の中に女体が飄々と立っていたりする。その画面が醸し出している雰囲気は絵というよりは詩歌といった方がもっと適切かもしれない。音楽が好きで詩が好きな彼の作品はこの美しいガーデンで生まれるのだ。ガーデンに身を置いた瞬間、納得のいく感じだった。


何多苓/アトリエ提供

このアトリエは、近隣ではスペース的には最も小さいらしいが、外の庭に神経を使った感じだ。さすが絵を描く建築家と言われる訳がわかった。ブルー・ルーフ(藍頂)といわれる成都郊外の田園地帯にあるアート・ヴィレッジ内の多くのスペースは彼のデザインによるものだ。

さらに、5月4日に開館する彼のプライベート・ミュージアム、何多苓美術館も氏のデザインによるものだという。美術館では、常設展で氏自身の作品を展示する以外、年に2回ほどお弟子さん等若手作家さんの展示会が開催される予定である。

取材中に二人の間に割り込んできたワンちゃんがカメラ目線で可愛かったが、犬怖がりの私にはリアクションに困る滑稽な一幕であった。


撮影/林丈司

実は中国の大物の作家さんは助手に描かせる風潮が一時ブームだったが、彼に言わせるとこんなに楽しいプロセスを他人に譲ることはあり得ないという。確かにそうである。これだけ美しい庭で気ままに描く状態は、絵画制作を楽しんでいる彼のライフスタイルそのものである。誰か他の人に描かせると全く見当違いなものができそうな気がする。

美しいガーデンで音楽を聴きながら絵画を製作する。どういう音楽を聴くのかとの質問には、ロック・ミュージック以外は何でも聴くとの答えが返ってきた。その場の雰囲気から、確かにロックだと制作を邪魔するだろうなと実感した。


取材中に描いていた作品の完成作/アトリエ提供

1980年代に一世風靡した彼の代表作『春風はすでに蘇った』、『青春』やイラストレーション『雪雁』は傷跡美術の代表格とも言われたが、1992年の『今夕は何夕やら』では、西洋あるいは旧ソ連から取り入れていた西洋絵画の手法からの脱却と転換を成し遂げる。中国の伝統的な文人画の画法である「間」を大きく取る手法をキャンバスの上で、油絵の具を使って実現させる。一種中国の伝統への回帰とも言えるだろう。その手法で詩歌のように、美しいガーデンで四季折々の歳月の中、花や風を、小鳥の楽しいさえずりを、蝶々の嬉しくて楽しい舞いを画面に取り込んでいる彼は、とても幸せそうで羨ましい限りである。

彼は、1988年の福岡アジア美術館での展示会では、「リアリズムの深層」というテーマで、早い時期から日本とはすでに縁がある作家だが、その際に展示された作品はまだ旧ソ連の影響が目に見えて強い感じだった。だが、取材を通してわかったのは、実際彼が最も影響を受けていた作家はアンドリュー・ワイズ(ANDREW WYETH)というアメリカンリアリズムの作家で、情報がまだ乏しかった80年代、若き日の氏はワイズの作品の中のヒューマニズムや写実的な表現に多大な影響を受けたという。

 


アトリエ提供

早期の彼の作品は、アジアの美術館や世界中の国際的なレベルの美術館に数多くコレクションされている。さらに、90年代に入ってからの彼の作品は叙情現実主義的な色彩が強く、油絵のキャンバスに油絵の具で描くのは変わらないが、描く方法は中国の伝統的な文人画のミニマリズムを取り入れ、「間」を大きく取る独自の色彩を出すことに成功するのである。それは、いわば80年代初期に影響を受けたワイズからの脱却と自身のカラーを出し始めたとも言える。イギリス風のワイルドな庭園は、プール付きの花園で、西南の成都ならではの彼らしいロマンチックな仕事場だ。彼のほとんどの作品はこの庭で生まれるらしいが、印象派の作家たちのように風景そのものを遠近法や西洋画的手法で描くのとは違い、目の前の景色を単純化し、そこに抽象的な人物像を描きこむのだ。あるいは単純に花か木だけを描く。文学好きな彼はあまりストレートな表現は嫌いだという。通常、多少詩的な表現を絵画の中にも取り入れ、ベールにかかったような風景や女性像を描く方が楽しいし、自分らしいという。リアリズムからシュールリアリズムを経験した彼が今試みているのは、おそらくミニマリズムの中に中国的な文人画の間を入れる手法で、落ち着いた感じが強い。

取材の時に描いていた作品に興味津々だったので、完成したらこのコラムに掲載することにした。進化を続ける氏の作品はいつも観るものをドキドキさせる魔力がある。

洪 欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。