アジアの眼〈3〉
逆境の中でも力強く命を謳歌し続ける
車椅子で舞う天使のような舞踊家 劉岩

北京の某ホテルのロビー・カフェで劉岩さんに取材をした。きりりと眼が覚めるようなボニーテールのヘアスタイルに赤い毛皮で、すでにカフェのあまり人目がつきにくいところに待っている彼女はとても律儀な人でもあった。

 彼女は内モンゴル出身、幼少時代にちゃんと食べないせいか痩せっぽちの彼女を心配したお母さんは、スポーツを色々とやるように勧めるが馴染めず、母親の親友だったある舞踏家の勧めで舞踊をやって見たら瞬時にハマったという。

舞踊学校で学び始めてからすぐ北京に移り、そのままずっと踊りを続け、その後踊りから離れたことはないという。そして、彼女は20代前半で中国の紅白歌合戦に相当する春節聯歓晩会に舞踏家の楊麗萍、譚元元と「歳寒三月」で共演し、一躍大スターになった。彼女の踊りの凄さは、「劉一脚」というニックネームがつくほど人一倍強い「脚のコントロール」にあった。


アトリエ提供

2002年、彼女がまだ二十歳そこそこの時から、作品「臙脂扣」「オレンジが熟した」「中国結び」「水中月」等の演目でほぼ毎年のようにグランプリで金賞を授与されることになる。さらに、国際的な舞踏劇で数多くの主役の大役が舞い込み、代表的な演目に「紅河谷」「黄道婆」「瓷婚」「西廂記」等がある。

2007年の年末のある日、北京オリンピック運営センターから電話があり、2008年の北京オリンピック開会式で水墨画の長い掛け軸の上で舞う「シルクロード」という舞台の大役が決まった。オリンピック開会式という大舞台のためのリハーサルは500回以上も繰り返されたが、7月27日のリハーサルで舞台から落ちるアクシデントが彼女を襲う。救急車で病院に運ばれた彼女にオリンピック開会式の大舞台は消え、さらに、半年以上の治療の末に退院して帰宅した彼女を待ち受けていたのは、自力では起き上がれない、生活さえできない事実であった。脚の技術を強みにしていた彼女にとってはまさに青天の霹靂としかいいようがなかった。

しかし、彼女は負けなかった。生活の自立もできない中でのリスタートは容易でなかったと推測できるが、彼女の進化にはやはり驚きと敬意を隠せない。強靭な精神力と驚くほどのスピードで彼女は立ち直ったばかりか、以前にも増して活躍の領域を広げていく。


アトリエ提供

その後、怪我からのリハビリを経て、車椅子での踊りが2009年11月の「最も深い夜、最も明るい灯り」を持って完成した。脚のコントロールが強みだったはずの彼女だったが、踊りの強みを手の踊りに転換する。

さらに、翌年の2010年にはリハビリを続けながら中国芸術研究院の舞踏学専攻の博士課程に入学する。博士課程修了後、彼女は北京舞踏学院の講師になり、「中国とインドの古典舞踊における手の比較研究」をテーマにした講義をスタートさせた。

車椅子に乗った天使の舞は、命の限り情熱を燃やして舞い続ける。足の凄さを手の強みに転換し、舞い続ける。

怪我した後の彼女は舞台監督、脚本等にも活躍の領域を広げることになる。それだけではない。公益事業で親のいない孤児を助ける「劉岩天使公益基金」も立ち上げる。

怪我する前との変化を尋ねると、怪我する前は一人の役者として踊っていたが、その後は踊るだけではなく、脚本や舞踏劇全体の構成にも監督として携わっているという。

また、家族の無条件の支持や周りの人々のサポートに切実に感謝を覚えるのも怪我する前との大きな違いだと話す。


撮影/柴金辰

普段の仕事の疲れで文句を並べる自分を恥ずかしく感じたと同時に、堂々と生き抜く彼女の生き方に大きな勇気とエネルギーをいただいた感じがする。

川端康成の小説にインスパイアされているという彼女の翳りのない美しい瞳に命本来の意味を深く感じた午後の一時であった。

彼女は、中国初の公益舞台劇「26デシベル」の総監督、総合プロヂューサーも担当する。それに続く舞台劇「天使の微笑み」「赤い糸」と彼女の活躍は国際舞台へとさらに広がる。

どんな逆境の中でも力強く命を謳歌し続ける劉岩氏、名前の通り強い、花のように美しい「舞者」であった。国際舞台でどこまで活躍していくか楽しみだ。

洪欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。