新中国の平和のあゆみ 第3回
「戦争を終わらせる」裁判から「平和を作り出す」裁判へ
石田隆至 上海交通大学副研究員

今年98歳になる元戦犯の稲田積(仮名)は、ある時珍しく「そんなバカな話があるか!」と声を荒げた。〝戦犯の寛大釈放は外交取り引きとして行われた〟という趣旨の論文が発表されたと知った時のことである。対中国封じ込め政策が進むなか、新中国は日米の間に楔を打つため、戦犯釈放を外交カードにして日本との国交回復を急いだという主張は以前から存在する。ただ、外交交渉の切り札にするだけであれば、高度な人道的処遇など必要ない。ましてや、戦犯裁判やそのための罪行調査、自己反省教育などまったく不要になる。戦犯たちを平和への歩みに転轍させた決定的体験をまるごと視野の外に置くことで、外交カード論ははじめて〝リアリティ〟を持つ。

稲田以外の元戦犯も、当事者不在の〝戦略思考論〟が拡がることに苛立っていた(写真上・稲田、写真中・高橋、下・難波)。彼らが体験したのは、当時の平和主義や国際主義、人民国家の建設という理想主義的文脈に裏打ちされた戦犯政策で、それは戦略的発想を乗り越えようとするものだったからである。

戦犯たちは折に触れ「罪を認める者には光明がある」と聞かされた。これが取り引きと映るのは、当時の人民司法の文脈を見落としている。新中国になり、旧社会の法律は「人民のための法」へと全面的に作り直されていた。刑法も、階級的な犠牲者とみなせる犯罪者には処罰だけでなく、反省教育を通じた社会復帰を重視する発想で整備が進んでいた。日本人戦犯も階級的犠牲者であると捉えたからこそ、罪行調査と同時に自己学習・自己反省が進められた。侵略主義を脱した〝階級敵〟を連帯可能な「人民の友」とみなすのは、国際主義の表れでもある。

罪行供述を終え、戦犯裁判が近づいた1956年4月、法的根拠として全人代で議決されたのが「目下拘留中の日本の中国侵略戦争中における戦争犯罪者の処理についての決定」(以下、「決定」)である。前文では、「各種の犯罪行為」を行なった戦犯たちには「もともと厳重に処して然るべきところ」だが、「日本の降伏後十年来の情勢の変化」「ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展」「戦争犯罪者の大多数が(略)改悛の情を示している」ことを踏まえて、「それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」と記されていた。ただ、これに続く第一項に戦犯たちは不安を覚えた。

「一、主要でない、あるいは改俊の情が比較的良好な日本戦争犯罪者に対しては寛大に処理し、起訴を免除することができる。重大な罪行を犯した日本戦争犯罪者に対しては、それぞれの罪行および拘留期間中の態度に応じて寛大な刑を科す。」

自分は起訴を免除される側なのか、刑罰を科される側なのか。この内容をどう受け止めるべきか議論さえ始まった。実際には、1ヶ月半後に始まる裁判で45名だけが有期刑判決となり(死刑、終身刑なし)、1017名が起訴免除で釈放された。

起訴免除という法理は、他の戦犯裁判との違いを際立たせている。一般に、有罪であれば処罰を受け、無罪なら起訴せず釈放する。起訴免除とは、有罪だが寛大に処理するという判断である。赦免したり、情状を酌量するという寛大さでもない。犯罪の重大さを認定した上で、あえて寛大に処理するという屈折を孕んだ「決定」だった。これほど複雑な処理となった背景は何か?

まず、「決定」冒頭の文言に注目すると、日本人戦犯が「公然と国際法の準則と人道原則に違反」したことが指摘されている。「決定」の作成経緯に関する政策文書や判決文などを踏まえると、これは東京裁判やニュルンベルク裁判で法的根拠となった「平和に対する罪(A級)」「通例の戦争犯罪(B級)」「人道に対する罪(C級)」を指している。新中国の戦犯裁判は、法的根拠が不明確な〝政治ショー〟だったという評価も珍しくない。確かに、裁判当時、国内刑法は未交付だった。だからこそ、早い段階から東京裁判など先行裁判の法的根拠を検討し、国際戦犯裁判の枠組で実施しようとした。

その際、重要な役割を果たしたのが、東京裁判で中国代表判事を務めた梅汝璈である。1949年12月に新中国に帰国した梅は、米国主導の片面講和に傾斜する国際情勢にあって、中国を含めた全面講和による国際平和の実現にむけ、東京裁判での国際経験や資料等を外交部に提供していた。戦犯裁判の法的検討が本格化する1954年以降には、法的根拠やその整合性等について頻繁に助言している。検察団の事前研修では、先行裁判の基礎資料に学び、そこでは裁かれなかった「満州国」の植民地支配責任まで視野に入れ、限界をいかに乗り越えるかを確認しあっていた。

ここまで来れば、先の「屈折」とは何かが見えてくる。東京裁判などの法的根拠に照らしても、戦犯が有罪であることは明らかだった。検察、司法は法に基づき厳罰に処すべきとの意見が強かった。ただ、被侵略国の立場としては、先行裁判が重視していた「法の支配」の意味が次第に変質していったことは軽視できなかった。とりわけ米国の関心が、犯罪処罰による正義の回復から、帝国主義諸国に有利な形での戦後国際秩序の再編へと移っていた。帝国主義支配を脱し、人民による新しい国家を建設していた新中国にとって、帝国主義諸国が生み出した国際法体系が植民地主義を色濃く残す限界に、同時に対処する必要があった。

加えて、日本人戦犯の大部分が既に認罪し、侵略者から人民の友へと自己改造していた事実もまた、同じくらい重要だった。「法によって裁く」だけでも、「免罪して釈放する」のでもなく、罪を認めた元戦犯たちと共に、継続する帝国主義・植民地主義を脱して〝平和を作り出す裁判〟を希求した。結果的に、国際法を重視して戦争犯罪を明らかにし、かつその限界を乗り越えていくために、社会主義国として平和主義・国際主義とも両立させるという隘路で見出されたのが、有罪だが処罰しない「起訴免除」という裁きだった。

取り引きや戦略といった発想に囚われている限り、平和主義・国際主義を掲げる新中国の理念に疑心暗鬼を生じてしまう。稲田たち元戦犯は、平和主義・国際主義が外交取り引きに見えてしまう現在の世代に、侵略者だった自分たちの姿に通じる危うさを感じたのだろう。