新中国の平和のあゆみ 第2回
戦犯および裁判関係者たちは葛藤にいかに立ち向かったか?
石田 隆至 上海交通大学副研究員

65年前、新中国での戦犯裁判を終えて帰国した人々は、加害行為の実態を伝える平和運動という形でその反省を具体化した。こうした組織的な取り組みは、東京裁判など他の戦犯裁判の被告には見られない。しかも、2010年代まで続いたその活動は、常に逆風に晒されてきた。帰国翌年に出版した手記集『三光』は、情報統制で戦場の実態を知らされなかった日本の民衆にその残虐さを知らしめ、ベストセラーとなった。しかし、右翼団体が出版社を脅迫したため再版を阻まれた。それでも、出版社と書名を変えて長く刊行を続けた。

元戦犯個人も「中共帰り」というレッテルのせいで、職探しや地域生活で差別を受けた。就職後も圧力や嫌がらせが続いた。今年100歳の今川(仮名、以下同)は、幸い公務員として復職できた。しかし、民主化からの「逆コース」が進む中、「アカ」扱いされ監視対象となった。職場で労組の責任者をしたことから「26年間の在職中に6回も転勤し」、その度に人間関係を作り直してきた。平和活動でも支部事務局など地道な取り組みを続け、メディア等の取材には近年まで応じ続けた。

 

101歳の玉村も同様である。帰国後、家族の相次ぐ逝去と貧困に苦しんだ。その頃自宅に公安が現れ、苦境につけ込むように、戦犯組織に関する情報と引き換えに金銭援助を申し出た。撥ね付けると職場にも公安が訪れ、会社から警戒された。それでも、地道に支部を支え、集会などで「過去の罪悪行為と、人道主義に基づいた寛大政策を直接体いっぱいに受けた体験を素直に話し聞いてもらう」活動を続けた。病気で思うように体が動かなくなった後も、今日まで活動を続けてきた。二年前には、「中国で悪いことをしたのに、こんなに長生きして申し訳ない」と穏やかに語った。

元戦犯も、これほどの圧迫や妨害が続くとは想像もしていなかった。それでも平和への歩みを止めず、自分たちで支え合うしかないと、相互に助け合いながら苦境を乗り越えた。圧力や排除を、逆に前に進む力に変えるその強靱な主体性は、彼らを監視し警戒する公安や世間をいっそう恐れさせた。戦後日本は、彼らが自ら反戦平和と困窮者同士の連帯を作り出す姿勢を市民的主体性と評価できず、「洗脳」された〝危険な集団〟とみなして遠ざけ続けた。

彼らの新中国での経験とはどのようなものだったのか?

1950年前後に拘留された日本人は、当初罪の意識もなく、戦犯扱いされて荒れ狂った。ただ、食事、居住、医療、文化活動など日常生活は驚くほど好待遇だった。看守からの暴言や暴力もなく、遊び呆けても制止されなかった。人道的な処遇の狙いが理解できないなか、朝鮮戦争で米軍が追い返されたことを知り、新中国に対する彼らの常識が揺らぎ始めた。一年以上も遊び続け、情報に飢えていたことから、戦犯自ら学習の機会を求めた。やがて階級論なども学び、収容後3年余り経つと、下級戦犯の間では「聖戦」が侵略戦争だったという批判的認識が拡がっていた。

しかし、1954年春に罪行の取り調べが始まり、個々人に供述が求められると、大きな葛藤に苦しんだ。戦争の侵略性を認識できても、個々の罪行を自供すれば処刑されると躊躇した。軽微な罪行のみ自供し、上官に責任転嫁するなど戦時中の認識にとどまった。人道的な待遇が戦犯を感化し、認罪させたという見方も多いが、それだけでは認罪に至らなかった。全面的な自供を可能にしたのは、時間を掛けた自己批判、同じ部隊や組織にいた者同士の相互批判、被害者からの告発状の閲覧など、自己の行為を客体化する取り組みだった。

被害者の存在が視野に入れば、鬼のような自身の姿も浮かび上がる。それを受け入れる葛藤や苦しさを経験してはじめて、被害者の怒りや悲しみの深淵が垣間見えた。彼らにできることは、同じ過ちを繰り返さないよう反省を平和に繋げる実践以外になかった。反戦平和への主体性はこうして生まれた。

主体性が見られたのは、戦犯たちだけではない。

戦犯管理所の中国人職員は、侵略戦争の被害者でもあった。職員になれば復讐を果たせると勇んで赴任した者もいた。しかし、中国政府は国際捕虜として人道的な処遇を命じた。戦犯に提供された食事の内容や回数は、職員のそれより遥かに豊かだった。それでも食べずに粗末に扱ったり、挑発したりする戦犯を見て、耐えられず離職する職員も続出した。食事を提供する際に蹴飛ばす者さえいた。党や政府の命令を葛藤なく実行できたわけではなかった。

人道的に処遇しても、厳格に対処しても、戦犯たちは心を閉ざし、未来への恐れや拘留生活から体調を崩す者が続出した。途方に暮れた職員たちは任務を果たすため、学習や自己点検を重ねた。それを通じて、戦犯の自尊心を傷つけるのではなく、理解して時間をかけて導いていく必要性に気付き、自身の接し方を変えていった。戦犯の苦悩を見守り、励まし続けた彼らの姿勢は、帰国後も戦犯の歩みをも支えた。

教育改造とは別に、裁判準備にあたっていた検察や司法の専門家はどうか。当時20代の検察官だった王石林は、山西省で重要戦犯の取り調べを担当していた。戦犯たちが認罪し、反省しているとはいえ、その重大かつ残忍な犯罪事実に基づけば、極刑を科すべきだと主張した。法律家として、また被害国の一員として当然の判断といえる。一方で、極刑に処しても、その犯罪の大きさに見合う罰ではないため、「寛大処理」して彼らの反省を平和に活かすというのが、周恩来総理ら党中央の見通しだった。その方針を理解できなかった王は、周総理に極刑を直接訴えた。ところが、「戦犯全員を処刑すれば満足なのか」と逆に問い返され、平和主義的な判決が有する射程をようやく理解したと回想している。

裁く側も裁かれる側も、戦争と決別する裁判への歩みの中で、自身の古い認識に向き合い、苦しみながらそれを転変させていった。そうした思想形成の中でこそ確かな主体性が育まれる。帰国戦犯は平和活動だけでなく、自身を裁いた人々や被害者との友好交流を長く続けた。これもまた、他の戦犯裁判には見られない平和的帰結である。