日本画生 藤島博文
「日中文化同盟論」を考える(4)

書経(拓本)を持つ藤島博文氏

五月晴れの蒼天を悠々と泳ぐ鯉のぼりは、古代中国『後漢書』の故事に由来します。黄河流域に激しい滝があり、そこを登り切った鯉(少年)は、竜(賢者・勇者)となり天に昇るとされ、大成するための難関を「登竜門」というのもこの故事に基づきます。

少年を励ます言葉としてまず思い浮かぶのが次の漢詩ではないでしょうか。

偶成(ぐうせい) 朱熹(しゅき)(南宋の大儒)

少年易老學難成(少年老い易く学成りがたし) 一寸光陰不可輕(一寸の光陰軽んずべからず)

未覺池塘春草夢(春の夢に浮かれているうち) 階前梧葉己秋聲(月日は過ぎ去ってしまうから)

人生を俯瞰したすばらしい教えです。私は今八十歳になりましたが、この漢詩に出会ったのは十七の時でした。中学の頃より中国の書画を模写し三国志等も読んでいましたので、本格的な漢詩を学んだ時には大人への第一歩に胸が高鳴りました。


中学三年生の時の作品

題壁(へきにだいす) 釋月性(しゃくげっしょう)(日本勤王僧の漢詩)

男兒立志出郷關(男子志を立てて郷関をいず) 學若無成不復還(学もし成らずんば死すとも帰らず)

埋骨何期墳墓地(骨を埋める大地はどこにでもある) 人間到處有青山(心を定めて学ぼうではないか)

人生の楽しい日、苦しい日、いつもこの漢詩を吟じつつ、故郷を想い母国愛を深めるよすがとしたものです。これらの教えは、知識的受験勉強の「知育」と共に精神的「徳育」の教えとしても大切であり、この「知育・徳育」のバランスこそ真の文化人の条件と言えましょう。


中学二年生の時の作品(白龍・彫刻)

かつて明治期の偉人、福沢諭吉は「学問のすゝめ」を著し新時代到来を際立たせるため儒教等を反面教師とし、渋沢栄一は「論語と算盤」(精神力と経済力)を説いて、近代経済界の父となりました。現代は一国ではなく世界が対象であり、再び「学問のすゝめ」を説きながら深い東洋哲学を世界中に活用させる時と考えます。

同じく明治期に活躍した岡倉天心は「アジアはひとつ」と説き、東洋思想、中でも日本文化における高い芸術性を広く世界に伝えました。この頃中国は清朝末期の混乱期でしたが、北京大学総長でいらした蔡元培先生は、高度な学問力と強固な精神力で学生たちを導き「美育」の思想を樹立させました。私は美育こそがこれからの時代を牽引する大理論と考えており、北京大学を訪れた時、学生さん達に蔡先生をお慕い申し上げていると伝え、キャンパスに建つ先生の像を仰ぎ見つつ記念の写真に納めました。その折に購入した書物は今も画室にあって愛読をしております。


龍字千体文字(中国甘粛省蘭州 龍源公園に永久保存)

思うに文化とは、広汎に「心田を耕す」事はもとより、漢字にあっては「文を化す」と書くように「深い学問による文」をまず掲げ、それを「実践する行為」と考えております。従って社訓や人生訓も格調高い文を掲げれば、そのように導かれ世は明るくなり、反対に私欲的文を掲げれば、欲望文化を増長させ世は乱れ衰退へと向かうことでしょう。その意味において、今後コロナ後の世界観は大きく変動するものと思いますが、この災禍を好転させるためにも人類は一日も早く世界共通の価値ある言葉を見つけ出したいものであります。

日中の深き歴史に集積された「学問」はその確かな答えを必ず持っていると信じ、両国に雲集される学者・賢人・指導者たちが人智を尽くして理想の「文」を出現させそれを掲げつつ世界平和へと導いてくださるなら、それこそ世界大文化の夜明けとなりましょう。

*この稿を書き進めている時、先月号でお伝えしました世界最古の土器文化(縄文一万六千年前の史跡)が世界文化遺産となる朗報がありました。日本人として意を強くし、いよいよの世界発信を思います。

プロフィール

1941年、徳島県美馬市生まれ。71年、日展初入選後、特選二回受賞、審査員となる。2005年、内閣総理大臣官邸正面玄関に「唐詩選より 黄鶴の図」が飾られる。09年、天皇陛下御即位二十年の委員となり、奉祝画「平成鳳凰天来之図」を謹筆する。03年から清華大学、中国人民大学など中国にて講演多数。著書に『美感革命』到知出版社。『日本人の美伝子』PHP研究所。『美育講演録』一茎書房(近日出版予定)など。日展会員。日中発展協会理事。つくば市在住。