天野 篤 順天堂大学医学部附属順天堂医院院長
望まれる中国の医療安全文化

冠動脈バイパス手術の専門医として優れた実績をもち、2012(平成24)年、今上天皇の同手術の執刀を担当した天野篤院長は、心臓外科医の名医として知られる。同氏は、父親が心臓病を患っていたことの体験を踏まえて、正確な治療、手作りの治療の道を選んだという。そうした出発点を持つ天野院長に、日本の医療の特徴と中国の医療に何が望まれるのかを語っていただいた。

 

国民皆保険で提供する日本の高度医療

—— 天野先生は日本大学医学部に入学するまでに3浪されたそうですが、そのように頑張って医師になられた理由は何ですか。

天野 あまり頑張っていないんですけど(笑)。私の場合、高校が進学校(埼玉県立浦和高校)だったんですね。同級生が東大に60人ぐらい行きましたが、そういう高校で3年も浪人すると、医学部に行かないと同級生にバカにされるなと思いました。2浪のときは、世の中とか自分とか、どうなってしまうんだろうという、漠然とした時期を過ごしました。20歳ですから、大人になり切れていないけれども図体は大人で、世の中に対して少しすねている時期でした。しかし、さすがに3浪のときは、もう大学に入れないんじゃないかという危機感が後押ししてくれて、入ることができました。

 

—— 先生は天皇陛下の心臓手術を執刀されたことで有名ですが、先生の手術の特徴と、日本の心臓外科手術が世界的にどのように評価されているのか、教えてください。

天野 私の手術の特徴を1つ言うと、正確で緻密だということです。若いころは経験が少ないので、時間がかかりましたが、だんだん経験を積むと、手術が速くなりました。同じことをやるのでも、速くできるようになる。そうすると、患者の回復もより早くなるわけです。

手術が上手になる方法は2つあると思います。最初から完成度70%ぐらいのところで、先輩たちと同じぐらいの時間で成長していくやり方と、最初のころは少し時間がかかっても正確に仕上げて、なれるに従って手術が速くなる方法です。私は後者を選んだのですが、なぜかと言えば、自分の父親が正確な手術をされなかったために命を落としてしまったからです。正確な治療は長持ちするという信念でずっとやっています。

2つ目の質問ですが、日本の心臓外科手術は正確で高度な技術を駆使していると評価されています。日本は国民皆保険で、患者は高度な医療を少ない負担で受けられます。私も初期の頃は未熟な手術でも患者さんに育てられてきたと思っています。結果を重んじれば、チャンスを与えられて技術的に高いレベルに達することが出来るのです。

一方、欧米では一人前の医者を早く育成して経験を積ませ、その医者のレベルを患者が判定するという構造だと思います。つまり、医者も競争のなかに置かれていて、いい医者は生き残り、ダメな医者は生き残れない。しかし日本の場合は、医者が選抜されるということはあまりないわけです。

それでも患者さんにとって必要な治療を最適なタイミングで行い、しっかりと社会復帰させる医師は社会から評価されます。同時に高度な医療でも患者さんの負担を少なくする努力も怠ってはいけません。

欧米の医療と日本の医療の違いはそこにあって、欧米の医療は、患者はたくさんお金を出して、高いレベルのいい医療を受けることができます。これに対して日本では、患者が出すお金は限られています。でも、高い医療を提供しなければいけないということで、われわれ医者側の条件が非常に厳しくなっているわけです。

 

国際診療部で外国人患者の受入れ態勢を整える

—— 先生はアジア心臓血管学会にも所属されていますが、中国の医療レベルをどのように見ていますか。

天野 このあいだ12年ぶりに北京に行きましたが、心臓外科のレベルは以前とあまり変わっていませんでした。なぜかというと、患者が多すぎて医師が技術を磨く暇がないからだと思います。

中国では2005年ごろから医師が複数の病院で診療ができるようになりました。これによって複数の病院から給料がもらえるようになった。そのため、大都市の病院では手術の技術向上よりも、安全な手術を数多くこなすという方向でこの10年ぐらい歩んだと思います。

むしろ地方の病院のほうが先進的な医療が行われていたりします。ただ、地方ではちゃんとした医療をやっているところもあれば、導入した医療機器を正しく使えていないなどのトラブルを生んでいる病院もあり、両極端になっているように思います。その証拠として大都市に合併症治療専門の外科医が存在していて、日本ではあり得ないことだからです。

それと、中国の富裕層は自国の医療や薬をあまり信用していないですね。一部の方は日本の薬を信用していて好んで日本の医療機関を受審します。そういう人たちには知識層でない人もいるので、混乱を招いています。

しかし私が院長として必要性を認めて、順天堂と日中医学協会の理事長である小川先生の後押しで国際診療部を立ち上げました。中国の患者さんでも差別なく機会があれば受け入れるようにして、中国国籍のスタッフを1人置いています。ですからビックカメラやヨドバシカメラと同じで、支払い能力があり、日本のことを理解してくれている患者は満遍なく受け入れるという態勢が整っています。

当初、中国スタッフは大学院生のボランティアでしたが、今は専門の人を雇用して対応してもらっています。現在、中国からの患者は全体の1%ぐらいですが、私としては5%ぐらいまで増やしたいと思っています。

 

—— ところで2014年に天野先生は日本医師会から最高優功賞が授与されましたが、先生は理想の医師というものをどのようにお考えですか。

天野 日本では医師1人つくるのに、だいたい1億円かかります。個人の負担と税金と、いろんな手当がかかっていますが、それを患者に対していい医療をすることでお返ししなければいけないわけです。

ですが、全ての医師に均一ではありません。結果の出にくい研究医や教育や基礎の医師も必要だからです。100人の会社だって、全員が働かなくても会社はもうけを出して成り立っています。それと同じように、きちんとやる気があって正しい医療をする医師を少しでも増やして医学全体を発展させる体制にしていくことで、全体としていい医療が推進できるようになると考えています。

開業してお金をもうけるのも別に悪くないと思います。患者に対してきちんと貢献してお金がもうかっているのであれば、何も問題ない。一方で、お金が目的ではなく、外科医であれば、手術を数多くやって患者が元気になるところを見たいという人もいるわけで、それぞれ目的が違っていいと思います。その目的が満たされて、かつ自分の目指した医療ができている、そういう医師を増やしていく。それが理想の医師育成の形ではないかと思います。

 

中国に求められる医療安全

—— 日本では人生100年時代になろうとしていますが、そんな時代における医師の使命は何だと思いますか。

天野 働き盛りの医師は、患者のために尽くすことを第一に考えるべきです。けれども、だんだん年齢とともに働けなくなってきますよね。そうなったときには後輩の育成をして、あとは予防医学ですね。病気にならないように患者を教育するということにエネルギーを使ったらいいと思います。会社員と違って「医者に定年なし」と言われます。いつまでも医師であるために自分で自分を変えていく。そういうのが理想ではないでしょうか。

あともう1つ、中国の医療でこれから問題になってくる可能性があるのが医療安全です。日本ではアメリカの影響もあって医療安全という考え方がかなり早くから浸透し、問題を起こすと社会から糾弾されます。

先日、北京に行って中国の医療が思ったほど進んでいないと思った理由の1つとして、日米の距離と中米の距離の違いを感じました。やはり中と米は離れています。つまり、中国の医療にはアメリカの考え方があまり浸透していない。そのなかでも、とくにギャップがあるのが医療安全だと思います。中国では患者を守る、正直な医療を提供するという考え方がいまひとつ浸透していません。

さらに患者の側も情報制限を受けています。そのため、インターネットからの知識なども非常に断片的で、患者やその家族が正しい医療情報を確認する方法が限られています。医療安全をもう少し成熟させていかないと、今後大きなトラブルが起きて、国民に病院不信や医療不信みたいなものが起きてくる可能性はあると思います。

そのやめには、やはり早くに病院の経営者とかマネジャーといった立場の人が医療安全文化を身につけて、患者を守るという医療の基本的な姿勢を広めていただきたいと思います。