野田 哲生 公益財団法人がん研究会常務理事がん研究所所長に聞く
プレシジョン・メディシンを中国と一緒に進めていきたい

2016年11月、日本中に衝撃が走った――。NHKスペシャル「“がん治療革命”が始まった~プレシジョン・メディシンの衝撃~」が放送されたからだ。日本人の2人に1人がかかる病、がん。その治療が今、根底から変わろうとしている。それが、がん細胞の遺伝子を解析し速やかに適切な薬を投与する「プレシジョン・メディシン(Precision Medicine、精密医療)」だ。プレシジョン・メディシンはがん治療をどう変えようとしているのか、その可能性と課題について、公益財団法人がん研究会常務理事、がん研究所所長の野田哲生先生にお話を伺った。

 

プレシジョン・メディシンとは何か

—— プレシジョン・メディシンについて教えてください。

野田 プレシジョン(Precision)というのは「精緻な」という意味であり、「精密医療」とか「精緻な医療」と訳されますが、いわば究極の個別化(Personalized)です。要するに、それぞれの患者さんのがんの情報を解析して、そのすべての情報に基づき、一番適した医療を行うもので、個別化とは少しイメージが違います。

これまで個別化医療がずっと唱えられてきていますが、がんは基本的には遺伝子病であり、がんになる過程でいろいろな変異が遺伝子に入ってきます。また、がんになりやすい体質の方々は、あらかじめ、そうした型の遺伝子を持っており、そうした遺伝的な背景の異なる方々が、例えばタバコを吸えば、また、いろんな遺伝子に傷がつきます。タバコを吸う人が罹る肺の扁平上皮がんでも、同じように見えますが、傷のつき方は微妙に違います。現在、そこまで精緻な違いがわかるようになっています。これは解析技術の進歩のおかげであり、なおかつ解析データの情報の集積の結果できるようになったもので、それがプレシジョン・メディシンです。

この言葉が知られるようになったのは、2015年1月20日の一般教書演説(米国大統領が連邦議会両院の議員に対して行う施政方針演説)でバラク・オバマ大統領が使ってからです。がんに限らず、これからの医療はプレシジョン・メディシンであると話したのですが、それは大量なゲノム情報に基づき最も適した医療を選択し、患者さんに提供するということであり、がんこそがプレシジョン・メディシンを最も必要としている病気だと言えます。

実はオバマ政権のジョー・バイデン副大統領は息子のボー・バイデン氏を脳腫瘍で亡くされています。50歳前の若さでした。それでバイデン氏は「バイデン・プラン」をつくり、がんの克服のため、がん研究・がん医療の要所要所に予算をつけるということをやってきましたが、大統領がトランプ氏に変わることで政策も変ってしまうのかもしれません。

いずれにしても、世界の潮流として、がんから、ゲノム情報を中心とする、非常に多くの情報をより簡単に得ることができ、今までよりも繊細で精緻な医療ができるようになったことで、個別化医療の究極――1つの実現形として、プレシジョン・メディシンがあるのだと思います。現在、がん研究会でもそこを強く意識して、そういう医療を完成させて、患者さんをより多く救おうという取り組みを始めています。

 

プレシジョン・メディシンが目指すところはどこか

—— プレシジョン・メディシンは外科ではなく、内科の領域ですね。

野田 主体となる領域は内科的治療です。ただ、外科治療というのは、物理的に広がっているものを全部とれるという原則において成り立ちますが、例えば、がん患者の2割程度は再発しています。そうすると、8割の患者さんを治すためには有効な術式といえますが、初めから2割の人が再発するとわかっていれば、違う手段であったり、あるいは外科治療プラス内科治療、投薬で治すことができると思います。そうしますと、例えばその2割の人と8割の人をがんのゲノム情報から識別しようというのもプレシジョン・メディシンですから、外科や放射線科にもそういう適用は広がっていくのです。

 

—— プレシジョン・メディシンが目指すところはどこですか。100%の完治ですか。

野田 そうですね。プレシジョン・メディシンの将来の目指す姿は完治ですね。結局、すべてのがんの原因となっているゲノム変異がわかりますから、それに対して薬が開発されれば、その薬で効かない人たちも同時にわかります。それに対して、また薬のターゲットとなるようなものを探すということができるので、将来的には100%の根治ですね。時間はかかるとは思いますが、論理的には、将来は、どのようながん患者さんに対しても、この医療は有効な医療となるでしょう。

先ほども述べましたが、プレシジョン・メディシンは新たな個別化です。これまでがんの識別の主体となってきた病理学的に見ると、まず、どこの臓器か、その次にがん組織・細胞の形態―いわゆる顔つきですねーが重要です。今までは、臓器と顔つきで分類されていました。ところが、今度は細胞からさらに、その中のゲノムを見てみると、また違った傷のつき方のプロファイルがあることがわかります。傷のつき方で、臓器や顔つきとはまた違う分類ができ、マトリックスでの分類ができてくるわけです。要するに、今までは分類できなかった特定のがんを新たに分類できるというのがプレシジョン・メディシンなのです。

ですから、日本だけでなく、世界中のがん患者のビッグデータを共有できれば、大変多い数になりますから、その人たちがこういう薬が効いた、効かないという情報も蓄積され、分類もより詳細になるとともに、その人たちに対する治療法の開発は非常に速いスピードで進むことになります。

 

プレシジョン・メディシンのネットワーク化

—— プレシジョン・メディシンは一つの病院だけではなく、ネットワーク化することが重要ということでしょうか。

野田 そうです。患者さんへの最初の接点は病院ですが、たとえばがん研有明病院はがんの手術件数で日本一です。その分、再発の可能性が出てくる患者さんも多いわけで、その方たちの再発を防ぎ、それでも再発された患者さんには、最適の医療を提供するというのが、がん研有明病院におけるがんプレシジョン医療の役割です。そのためにゲノム情報をきちんと精査し、蓄積するのが我々研究系の役目です。

しかし、そこで終わりにするのではなく、有明病院では高度な標準化治療を行っていますから、その治療データそのものが貴重です。一定のゲノムの変異を持っているある患者さんに対し、標準化治療を行った結果、このように効いた、効かなかった、再発したがんのゲノムはこうだったという情報をすべて積み重ねて、その患者さんに最も適した治療を、世界のビッグデータを使って探しにいくことも可能です。一方、他の病院も、がん研究会が積み重ねたデータにアクセスができれば、そちらの新たな患者さんの治療にも貢献できます。

海外へのデータの開示については、各国に個人情報保護法がありますが、今後、個人が特定されないようにして、できる限りオープンにしていくことが望まれます。アメリカでは今、かなりの情報が共有できるようになっています。

 

がんはゲノムの変化と治療とのせめぎ合い

——プレシジョン・メディシンは、例えばがん以外の糖尿病などの分野にも有効なのでしょうか。

野田 将来的にはそうした分野にも適用されていくと思いますが、大きなポイントとして、いま現在、プレシジョン・メディシンが精緻な診断ができる理由は、ゲノム情報を精緻に得ることができるからです。ゲノム情報というものは、すごく大量な情報で、それを一気に調べることができ、解析するという技術が進んで可能になりました。そして、がんの発生と進展・再発の原因こそが、ゲノムの異常であり、がんの治療抵抗性もゲノム異常の多様性が原因となっています。

糖尿病などは、生まれ持った遺伝子の情報で発症するかしないかをより精緻に調べることはできても、病気になってしまってからは、あまりゲノム変異、すなわちゲノムの構造異常は影響しないのです。がんの場合はどんどんゲノム情報が変わっていきます。効いていた薬がその後効かなくなったりします。ですから常にがんはゲノムの変化と治療とのせめぎ合いなわけです。すなわち糖尿病などは、発症してしまってからは、ゲノムの構造情報そのものはあまり治療法に影響を与えないのです。もちろん、今後、構造異常にとどまらず、すべてのゲノムの機能異常が精緻に解析できるようになれば、ヒトの殆どの病気にプレシジョン医療が適用されるようになるでしょう。

プレシジョン・メディシンは、診断の高精度化のみならず、今後、有効な治療薬の開発の速度を上げることにも寄与すると思いますが、重要なことは、治療薬の速やかな開発が進むのと同時に、また、その薬が効く人たちもすぐに特定できるようになることです。その結果、がんで亡くなる人は減っていくのです。

 

プレシジョン・メディシンの可能性と課題

—— 今後の課題は何でしょうか。

野田 最終的には保険が利くということですね。薬の場合は日本の場合、効果イコール保険償還です。アメリカはこの2つが別で、有効性、危険性のバランスから効果が認められたら、あとは被保険者が加入している保険会社が支払いを決めています。診断法の場合、状況は少し異なります。

例えば、現在のプレシジョン・メディシンの基軸となるゲノム解析が、前立腺がんのPSA(prostate specific antigen=前立腺特異抗原)検査のように保険で認められるように、すぐになるかというと、それはすごく難しいです。一方、患者さんの診断技術から少し離れて、がん検診への応用も考えることができます。これからの医療を考えたときに、健康かもしれない人にまで等しく保険でやるよりは、数万円以下でできるようになると思いますから、たとえば朝出勤するときに駅前でちょこっと採血して、結果は1週間後にお知らせする。その結果を見て、次の週に半日だけ休んで検診センターに来てくださいという形がとれればよいと考えています。その前半部分は医療ではないという形に持っていきたいのですが、技術的には安全なおかつ正当なものであるということが薬事法で定められているので、そこに適応させるのが課題だと思います。

そのためにもみなさんに参加してもらって、臨床試験をしないといけません。がんが一番怖いのは多様性です。がん1個が遺伝子変異を持っているのではなくて、がん1個1個が分裂するためにいろんな変異を持つので、投薬しても効かないがんが生まれてきてしまうのです。ということは、がんの細胞の数が多くなる。つまり体の中でがんが大きくなれば、そういう多様性、あるいは変幻性も多くなるので、治療するのは絶対早い方がいいのです。

 

中国に検診機関をつくりたい

—— 近年、中国人観光客の増加に伴い、中国からの医療ツーリズムも増えています。今後、中国との医療交流、患者の受け入れについてはどのように考えていますか。

野田 がん研究会は、草刈隆郎理事長が積極的に国際的な視野でがん医療・がん研究での貢献を考えており、山口俊晴院長のもと、有明病院では国内随一の数の外国人がん患者さんを受け入れています。山口院長が言われているのは、国内の患者さんであれ、国外の患者さんであれ、一番重要なのは、その患者さんに提供できるベストな治療を見極め、速やかにそれを提供する体制づくりです。わたしは、そのためには、さきほど述べたようなプレシジョン・メディシンによる早期発見のシステム作りも大切だと考えています。それを中国と一緒に進めていきたいと考えています。

現在、いわゆる検診というのはファイバーやエコーで見たり、ほとんどが画像に基づいて行っています。現在では、まだ小さいがんのうちから体の中に変異したゲノムが流れていることがわかってきていますから、それを探すことで、がんをどこかに持っているという人が見つかっていくわけです。プレシジョン・メディシンをがん検診に応用することで、より早くがんの可能性の高い人を探すことができるわけです。近い将来、血液でがんをスクリーニングすることができるようになる可能性があることを知ってほしいのです。

私のプランでは、特にがんの種類やがんのゲノムの変化が中国人と日本人は似ていますので、探し方も似ているわけですから、最初は採取したデータを送ってもらい、がん研で調べて、がんに罹っている確率を伝えることが出来ると思います。そして、上述の山口院長のお考えのもと、有明病院の健診センターでは多くの中国の方々が、いまもがん検診を受けていますから、ご本人が希望すれば、そこで検診を受けていただくということも可能であると思います。そうすると我々は、ゲノムの変異情報もあらかじめ手に入りますし、高精度な検診を提供することもできます。

現在、がん研有明病院は、北京大学深圳医院を始め、中国の幾つかの医療機関と連携関係にあり、多くのがん患者さんを受け入れていますので、私の個人的な意見になりますが、将来的には、さらに上海などの大都市の高質な医療機関と連携して、プレシジョン医療を応用したがん検診を行って、これを治療へとつなげていく仕組みを構築し、併せて、がんゲノム情報を蓄積することで、両国のがん医療の発展に貢献できたらと考えています。

 

取材後記

プレシジョン・メディシンは始まったばかりで、まだ夢の治療にはなっていないが、それが進むことによって、救われる患者が増えることは大いに期待できそうだ。しかし、効果を期待できる薬が見つかっても、保険適用の壁という課題が立ちはだかるのも現実のようだ。「プレシジョン・メディシンを中国と一緒に進めていきたい」と熱く語る野田所長の姿に、中日両国における医療の革新と可能性を感じた。