小川 秀興 日中医学協会理事長、順天堂第九代堂主に聞く
日本への医療観光は第三者機関を通じて

1838年創立の順天堂医院は順天堂大学医学部の附属病院であり、日本で最古で最高レベルの総合病院の一つであり、皇室や著名な政財界人も足を運ぶ。順天堂医院と中国の縁はあまり知られていないが、かなり古く長い関係がある。日清戦争で北洋艦隊が全滅し、1895年3月20日、李鴻章が清の全権大使として山口県馬関(現在の下関)の春帆楼での講和交渉に赴いた際、浪人・小山豊太郎に狙撃され、左目下1cmに命中した。外交に小事はない。いわんや清国の全権大使である。日本政府は最優秀の医師であった順天堂第三代堂主で軍医総監でもあった佐藤進に李鴻章の治療に当たらせた。この治療で李鴻章は清国に1億両の銀を準備させ、さらに、回復後、佐藤進に「妙手回春」の額を贈っている。脇書きには「佐藤医国手」とあった。中国経済の発展に伴い、多くの中国人が第三者機関を介して順天堂に健康診断や受診に訪れるようになり、順天堂と中国の縁はさらに深まっている。そこで、順天堂第九代堂主で日中医学協会理事長の小川秀興氏を訪ね、お話をうかがった。

 

中国のリーダーの一言が中日医学交流の窓口を開く

—— 先生はこれまでに、日本皮膚科学会会長、日本研究皮膚科学会理事長、日本医真菌学会理事長を歴任され、アジアにおける医学教育に著しく貢献した功労者として「最高優功賞」も受賞されています。2015年には、公益財団法人日中医学協会の理事長に就任されました。日中医学協会設立の背景について教えていただけますか。

小川 1972年9月に田中角栄首相が訪中し、毛沢東主席、周恩来首相と日中共同声明に調印。そして1978年は日中の友好、特に日中医学交流にとって最も歴史的意義のある年でした。鄧小平氏が中国の国家指導者として初めて来日し、当時の李先念副総理が日中議員連盟会長 宇都宮徳馬氏らとの会談で、中日の医学交流の窓口の設立を提起し、中国との医学・学術交流の窓口として、日中友好協会の中に医学・学術交流小委員会が設置されました。

1980年、日中医学協会は日中友好協会から独立し、1985年には財団法人日中医学協会として設立され、さらに、2013年には公益財団法人日中医学協会になりました。昨年、設立30周年を迎えました。

日中医学協会の仕事は医学、歯学、薬学、看護学などの交流を通して日中の保健医療の普及促進を図り、日中の医療格差を縮小することです。

1986年からこれまでに、中国の医学者や日本にいる中国の学者の助成、日中の研究協力を行い、実績は825件で、総額は5億8000万円にのぼります。日本財団の全面的サポートのもと、1986年に中国国家衛生計画生育委員会と協力して日中笹川医学奨学金制度を立ち上げ、中国から優秀な人材を選抜して日本全国の医療機関で1年間研修を行い、これまでに2200名の人材を育成してきました。彼らは帰国後、中国科学院の院士、医科大学の学長、副学長、主任、さらには三甲医院(中国における最高等級の病院)の院長として中国医学界を牽引しています。

また、これまで培ってきた人脈を活かし、日本の学者を中国の医療機関に派遣して日本の先進医療技術を教えたり、学術交流のために中国から専門家を招いたり、中国の若手医師や看護師に日本の医療機関で日本の最先端の医療技術を学ぶ機会を提供しています。

さらに、毎年学術会議を開催し、日中の医療分野の専門家同士が直接相対して学術情報交換を行い、機関紙『日中医学』に両国の医療の現状と最新の医療情報を寄稿してもらっています。この機関紙は1986年の創刊で年4回発行しており、日中の医学界の相互理解、相互学習の架け橋になっています。

ここ数年、日中の民間交流は停滞期に入っているようですが、我々は医学、薬学、獣医学、看護学などすべての医療分野において、中国の学者、専門家、学生に道を開き、中日間の医療格差を縮小する努力をし、30年来培ってきた人脈を生かして、日中両国の政府、医療、企業の橋渡しをしています。我々は、医療の進歩が日中両国の国民に真の利益をもたらし、我々日中医学協会は日中両国の友好の象徴になると信じています。

 

中国の若者に学びの場を

—— 先生は早くから招聘を受け、日本の医療分野の専門家を組織して中国でセミナー等を行い、中国医学界とは頻繁な交流を続けておられます。中国の第四軍医大学、北京医科大学の客員教授で、華西医科大学、北京医科大学、中日友好医院などの名誉教授でもあられます。中国にはお弟子さんも多くおられるのではないですか。順天堂大学医学部に中国の留学生は多いですか。

小川 大学全体では毎年数十名、医学部だけでも累積400名は超えています。私の直弟子は29名、その内11名は医学博士号を取り、中国で要職に就いています。大学人として、私は「三無主義」を大事にしています。男女の差なく受け入れる、学閥をつくらない、国籍は問わないの三点です。37年前に、タイのバンコクで皮膚科、性病、ハンセン病、HIVのトレーニングコースを開設しました。アジア、中近東、アフリカそして中国の若者を積極的に受け入れました。1976年から2015年(現在)までに971名を受け入れ、うち中国の方は57名でした。3ヶ月、10ヶ月、11ヶ月コースと伸展させて来ました。印象に残っているのは30年以上前にタイで出逢った英語があまりできない中国の医師です。黒板に漢文で要約した内容を書いてコミュニケーションをとりました。最初の1ヶ月はほとんど理解できていませんでしたが、半年経つと下から5番目だった成績が上から3番目になりました。非常に真面目に頑張るんです。これが私が最初に中国の学生から受けた印象です。

当然、今の中国の学生の英語はとても上手です。これまでに順天堂大学医学部全体で医学博士の学位(MD &PhD)を取った中国の医師は29名います。中国に講義に行って出会った優秀な医師を日本に呼び寄せて、より良い学びの場を提供しています。

Ph.D.という、取得が非常に難しい日本の学位制度があります。順天堂大学医学部の英文論文の質(Impact Factor:IF)数は世界でもトップクラスですが、うちで医学博士を取った29名の中国の医師のうち11名がIF・CIの大変高い論文を発表し、世界でも注目されています。

 

日本への医療観光は第三者機関を通して

—— 日本の医療は優れており、多分野で世界トップクラスです。近年、日本政府は「観光立国」のスローガンの下、さらに「医療立国」を旗印に掲げ、中国向けに医療観光を大きく推進し、多くの中国人が訪れています。この点はどうお考えですか。

小川 良い傾向だと思います。中国の患者の選択肢が増えるだけでなく、日中の医療を互いに学び合い、レベルアップすることができます。

しかし、慎重に進めるべきです。ビザと言葉の問題があるからです。来日前にまず、信頼できる中日連携した第三者機関を探し調整してもらい、最も適した医療機関を探して受診することです。予約なしで直接日本の病院に来ても、すんなり受診も入院もできません。言葉の問題もありますので、返って病状に支障をきたします。

 

慈悲の心ですべての人に医療を

—— なぜ医者になろうと思われたのですか。

小川 「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、日中の大学間連携で東京大学から派遣され、北京大学の教授であった父の影響です。私達家族は戦後日本に帰国しました。当時の日本は壊滅状態で、あらゆる分野で復興が急がれていました。貧しくて医者にかかれない人がたくさんいて、父はお金を取らず診ていました。すると皆さん、家の前に野菜や魚やお米を置いていったり、掃除をしたりして感謝されていました。

貧富に関係なく全ての人が医療を受けられるように、父は公立病院長として国民健康保険制度を進め、地域医療に尽くしました。日本の健康保険制度は慈悲の心を持つ医師「赤ヒゲ」達により、関東大震災や戦後の荒廃の中から次第に全国に広がり確立していきました。

私も学生時代からよく岩手県の無医地域に無料医療に行きました。教授になってからは医学部の学生を連れて、僻地や石垣島、波照間島など離島の人に医と食習慣の指導をしたりしました。今では先述の如く、東京やタイ国を舞台にしてアジア・中近東・アフリカの地域医療を荷う人材を専門医として育成しています。医師は慈悲の心を持たなければならないと、父の行動から教わりましたので、若い学生・医師達にもそう接しています。

 

取材後記

インタビューを終えると、小川先生は普段は鍵がかかっているという部屋に案内して下さり、そこで李鴻章が佐藤進に贈った額を目にした。佐藤進と言えば、中日の歴史上のあるエピソードを想い起こす。静岡県袋井市にある東海一の名刹である禅寺・可睡斎に、順天堂第三代堂主佐藤進を記念して建てられた、「活人剣碑」と呼ばれる剣形碑がある。当時、軍医であった佐藤進は李鴻章の治療に毎日剣を帯して出入りした。李鴻章が不思議に思い、医者になぜ兵器が必要なのかと尋ねると、彼は「この剣は殺人剣ではなく、病魔と闘う剣であり、『活人剣』である」と答え、李鴻章は心から承服した。小川秀興先生が日中の医療交流の推進、医療格差の縮小、医療人材の育成に心血を注ぎ貢献されていることは、当代の中日の「活人剣」とも言えよう。