佐々木敦子 荘則棟夫人
荘則棟と日本人妻との愛情物語

 

中国語を上手に話す日本人

中国の卓球の花形選手であった故・荘則棟の未亡人は、佐々木敦子という。名前から明らかに日本人である。ところが、本誌の取材に答える彼女の中国語の発音はまるで中国人であった。困惑する記者に向かって、彼女は赤裸々に語ってくれた。

「私は1944年に中国・瀋陽で生まれ、その後、ハルピンでしばらく生活し、1949年の新中国建国後、獣医研究員であった父は、中国政府から新中国建設のために力を貸してほしいと請われ、家族と共に中国に残ることにしました。甘粛省河西回廊の張掖に移り、十数年間暮らしました。1962年に、父は蘭州で直腸がんのため亡くなりました。1967年に母はわれわれ6人のきょうだいを連れて日本に帰国しました」。

 

日本で荘則棟と出会う

佐々木敦子はこれまでを回想しながら語った。

「日本に帰国した時、私はすでに23歳になっていました。日本の生活に馴染めず、自分は中国人だと感じていました。1971年、中国の卓球代表団が名古屋で開催される世界卓球選手権大会に参加することを知り、故郷の人がやって来るような親近感を覚え、私は同僚の一人を引き連れて、島根県から電車で12時間かけて名古屋に行きました。受付の人に、『誰に会いに来たのですか?』ときかれ、私は『中国代表団の方なら誰でも結構です』と答えましたが、『明日から試合が始まるため、選手は皆忙しいので、一週間後、試合が終わってからなら可能です』と言われ、私たちはがっかりしてその日のうちに帰りました。一週間後、再び同僚と共に中国代表団に会いに行きました。団長がちょうど会議中だったため、荘さんが代わりにわれわれと会ってくれました。時間にして10分ほどでした。私は興奮していたので、プレゼントを何も準備していませんでしたが、荘さんは、記念にとブローチを差し出されました。私が即座に『ブローチではなく、あなたが胸に着けている中国の国章のバッジをいただけませんか』と言うと、荘さんは困惑して『それは無理です。大会中は胸に着けておかなければなりません』と言いました。今思い出しても汗顔のいたりです。1972年11月、荘さんは中国卓球代表団を率いて再び来日しました。当時、私は友好商社で働いていました。会社は中国代表団の警備やチケットの手配を担当していて、東京のホテルニューオータニに、荘さんを訪ねる機会を得ました。荘さんは大きな花束を贈ってくださいました。同僚たちにも見てもらいたくて、社内にある花瓶を集めて生け、社内の隅々に飾りました」。

 

 

13年後に北京で再会

「それから13年の間、日本の新聞で荘さんに関する様々な報道を目にし、荘さんの消息を何度も探りましたが、彼の居場所を知る人はいませんでした。その後、私は日本の民間の友好商社の社員として、北京に駐在しました。1985年、趙荔さんが私を北京少年宮に連れて行ってくれ、そこで荘さんとお会いすることができました。彼は再びコーチとして少年宮に戻っていたのです。その後はずっと、趙荔さんが荘さんと私に連絡をくれ、3人で会っていました。その年の中秋節、荘さんから、北海公園の正門でお会いしませんかと誘われました。私たちは月明りの下で、公園の長い小道を一緒に歩きました。あのロマンチックな光景は、今でもはっきりと覚えています。その年の10月、当時、同じく友好商社で働いていた兄が出張で北京にやってきました。兄が荘さんに『妹があなたのことをとても気に入っています』と伝え、私たちはやっとお付き合いを始めました」。

 

結婚―あの日の記念バッジ

佐々木敦子は幸せそうな表情を浮かべて続けた。

「当時、中国人が外国人と結婚するのは、容易なことではありませんでした。ましてや荘さんは中国を代表する卓球の花形選手です。私たちは中国の国家指導者である鄧小平先生に三度にわたって手紙を書き、結婚の許しを請いました。諦めかけていた時に、鄧小平先生が私たちの結婚を許可したとの通知を受けました。但し、佐々木敦子は国籍を中国にしなければならないとのことでした。私には何の不都合もありません。1971年の出会いから16年、私の夢はついに実現するのですから!」。

こうして佐々木敦子は中国国籍を取得し、1985年12月19日、荘則棟との婚姻が成立した。荘は彼女の中国名を夢桜と名付けた。彼女は幸せそうに語った。

「結婚後、夫は私をとても大事にしてくれ、家事一切を引き受けてくれました。私はいつも話していました。『荘さんは太陽で、私は太陽の光を受けて輝く月。太陽がなければ私はおしまいよ』」と。

2013年、荘則棟は北京で病気のため亡くなった。その後、佐々木敦子は日本に帰国した。今も国籍は中国であり、日本の永住ビザを保有する。

取材の最後に、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「結婚した時、荘さんは、あの記念バッジを私にくれたんですよ」。