上杉 孝久 上杉子爵家九代目当主 日本酒プロデューサー
日本酒を世界無形文化遺産にと誓う戦国名将の子孫


撮影/本誌記者 呂鵬

「四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒(四十九年のわが生涯は一睡の夢のようであり、この世の栄華は一杯の酒のようなものだ)」。戦国時代の名将上杉謙信は辞世の句を漢詩に詠んだ。英雄の慨嘆がよく表現されている。

上杉謙信と言えば、彼の日本酒好きは語り草になるほどである。「越乃景虎」、「謙信」など、今も日本酒の銘柄は彼に由来するものが多い。彼の正義、仁義、信義の物語を日本人は伝え称えてきた。彼の日本酒に対する愛も同じく語り伝えられてきた。上杉家の子孫も正に日本酒の国際化への道を開くべく奮闘している。

近年、日本酒は中国でも浸透しており、認知度も市場シェアも高まっている。日本酒造組合中央会の統計によると、2017年の日本酒の中国への輸出額は43.8億円で、前年比で62.2%の増加となった。日本政府も公認する、その舞台裏の一人が、上杉子爵家九代目当主で日本酒プロデューサーの上杉孝久氏である。


雲南大学での講演会

中国の「通」を唸らせる日本酒

—— 先生はこれまでに何度も中国の奥地まで足を運び、民間に伝わる醸造法を学び、上海等の都市で日本酒の展覧会を開催し、雲南大学で講演もされています。また、2015年には著書『日本酒的趣味研究社』(邦題:日本史がおもしろくなる日本酒の話)を中国で出版されました。中国と縁するようになったきっかけについて教えてください。

上杉 私は大学時代、両親に伴われて中国に行ったことがあります。第二外国語に中国語を専攻し、中国から『人民日報』を取り寄せて読んでいました。ですから、中国とは深い関係があるのです。

中国には何度も行きましたが、最も印象に残っているのは昆明です。昆明は、私が直行便を使わずに訪問した初めての都市です。上海で乗り継いで8時間かかりました。それまでは、雲南といえば少数民族が多く住む地域というイメージでした。ところが、空港に降り立って驚きました。昆明空港は立派な国際空港で、出迎えの車はアウディでした。通りを走っているのは有名な外車ばかりで、目に飛び込んできたのは林立する高層ビルでした。中国で発展しているのは上海や北京や香港だけでなく、昆明までもが大発展を遂げていたのです。

中国人の日本酒に対する関心の高さは、私の予想を超えるものでした。雲南大学で講演を行った際、学生たちは先を争うように質問を投げかけてきました。彼らの日本文化や日本酒に対する情熱を感じました。昆明で最大の日本料理店で試飲会を行った際には、100以上の人が集まりました。


昆明での日本酒試飲会

SAKEは世界共通語に

—— 日本酒の中国での認知度は年々高まっており、愛好家は増える一方です。ところが、日本では若者の日本酒離れが進み、酒蔵の数も年々減少し、全盛期の四分の一です。日本酒の伝承は危機に直面しているのではないでしょうか。

上杉 日本の若者の日本酒離れのような現象は諸外国でも見られます。フランスの若者が最も好んで買うのはビールで、ワインは飲みたがりません。上等なワインのほとんどは中国に輸出されています。イギリスの若者もウイスキーは飲みたがりません。ロシアのウオッカも然りです。どの国の若者も、伝統的なお酒は年配者が飲むものだと認識していて、時代遅れだと感じているのです。「身内よりも外部に高く評価される」という現象が起こるのはこのためです。ところが、国外に出れば目新しく、重宝されるのです。

欧米諸国では誰もが、SAKEが日本酒であることを知っています。日本酒はどれもフランス料理に合い、グルメは日本酒を選びます。ワインにソムリエがいるように、日本酒にも利き酒師がいます。これは、クールジャパン官民協力プラットフォームのメンバーである平出淑恵氏が設立した国際資格で、彼女の尽力で世界最大規模のワインコンペであるIWC(International Wine Challenge)にSAKE部門が創設されました。


上杉氏の著書

日本酒復活のために知恵を絞る

—— 若者の注目を集めるために、酒造メーカーも知恵を絞っています。百年以上の歴史をもつ多くの銘酒が、ゲームやアニメとコラボしています。戦国BASARAシリーズ、バーチャファイター、生誕40周年のパックマン、日本お得意の「カワイイ」を行使して日本酒を擬人化したスマホゲームアプリ「萌酒ボックス」などです。

上杉 その通りです。日本酒を復活させるために、スキルの向上、醸造技術の改善、最新設備の導入など酒造メーカーは様々な試みを行ってきました。日本酒が世界に出て行く過程で、先頭を切った酒蔵の一つが山口県の旭酒造の「獺祭」でした。ユニクロのパリ旗艦店のオープニングセレモニーでは「獺祭」が花を添え、鏡開きが行われました。

旭酒造は経営方針を転換して高級酒の製造に注力してから、長い年月がかかりましたが、現在では大きな酒蔵になりました。興味深いのは、この変革によって新たな愛好家が生まれました。

歴史のある酒蔵ほど空気中の酵母が多くなります。醸造の過程で樽の蓋は空けた状態ですので、蔵付き酵母が混入しやすくなり、その酵母が酒に複雑で独特な口当たりをもたらします。「獺祭」は蔵付き酵母を排除して初心者でも美味しく感じるような清涼感がある酒に仕上げています。

初めて飲んだ人はみな、すっきりとして飲みやすいと感じますが、古くからの愛好家の中には、「淡白で物足りなくなった。水を飲んでいるようだ」と言う人もいます。

これは伝統と革新の衝突であり、順応であると言えます。時代によって順応の仕方は異なります。また、衝突が伝統に新鮮さをもたらしていくのです。

地酒の多様性を守り、日本酒を無形文化遺産に

—— 先生は1980年代から日本酒の普及に携わってこられました。まだ宅配便が発達していなかった時代に、全国各地の酒蔵に足を運び、銘酒を選別して東京に持ち帰り、さらに、ロゴをデザインして販路を開拓されました。また、コロナ禍前には国内外からの招請を受けて、毎年100回以上の講演をされています。今後についてはどのような戦略をおもちでしょうか。

上杉 私は27歳の時、事務所を立ち上げました。それまでは、出版業界で日本酒や旅に関する書物のライターをしていました。400軒以上の酒蔵に足を運ぶうちに、日本酒に強い関心を抱くようになりました。事務所を設立してからは、より一層日本酒の研究に励むとともに、日本橋にある創業60年の老舗料亭を継承しました。

当時、東京の人は周辺地域や大手酒蔵の日本酒しか口にすることができませんでした。私は仕事を通じて、地方にある多くの小さな酒蔵と交流があったため、利き酒をして銘酒を探し出し、東京に持ち込み、多くの日本酒愛好者に紹介してきました。1号店、2号店、赤坂の料亭、百貨店内への出店も果たし、これらの努力が日本地酒協同組合などから認められ、「地方の零細酒蔵の救世主」とも呼ばれました。

地方の酒蔵には多くの珍品が埋もれています。中には60本か100本しか数がなく市場に出せないため、片隅に積まれて埃を被り、酒蔵の人が時々取り出して気晴らしに飲んでいるといったこともあります。私はそんな珍品にロゴをデザインして限定品として売り出し、新たな価値を生み出しています。

60歳の時、すべてのお店を閉め、日本酒の研究に専念し、複数の書籍を出版しました。

政権交代前の自民党政権の時期、一部の国家は日本酒の関税を緩和或いは免除したいと申し出て来ました。ところが政府はこれを拒否したのです。日本酒もビールも焼酎も同じ輸出酒であり、日本酒だけを優遇することはできないという理由でした。しかし、国外に目をやれば、フランスは早くからワインを輸出戦略商品と位置付け、様々な輸出保護政策を講じて免税を勝ち取っています。

民主党政権になってから我々の努力は実を結び、2012年、古川元久国家戦略担当大臣の下で、日本酒と焼酎が「国酒」に定められました。これはおそらく、民主党短期政権の誇れる実績だと思います。幸い、第二次安倍政権でもこの政策は継承されました。

この政策が一連のプラスの変化をもたらしました。海外の日本大使館には、ゲストをもてなすためのワインセラーが置かれています。今では、ワインセラーの中でワインが占める割合は三分の一程度で、残りはすべて日本酒です

現在、日本の外務省職員は、海外に赴任する前に必ず日本酒の講座を受け、利き酒師の資格を取らなければなりません。講師を担当するのは、先ほどお話しした平出淑恵氏です。

目下のところ、私が理事長を務めている日本食文化会議では二年後を目標に、日本酒の世界無形文化遺産登録の実現に向けて動いているところです。

取材後記

詩経に、「醸みし酒は有衍たり」、「兄弟よ遠きこと無かれ」とある。美酒は、長い中日文化交流の歴史に彩りを添え、多くの感動の物語を紡いできた。上杉先生の高潔な人徳によって、日本酒は両国人民の喉と心を潤し続け、多くの素晴らしい楽章を創り上げようとしている。上杉孝久先生の宿願が叶い、日本酒が無形文化遺産に登録されることを待ち望んでいる。