鈴木 寛 元文部科学副大臣、東京大学教授、慶応義塾大学教授
「30年後、中国は陸続とノーベル賞受賞者を輩出」

2018年は幾重にも佳節を刻む年であった。明治維新150周年、清朝の「百日維新」(戊戌の変法)120周年、さらには「中日平和友好条約」締結40周年、新中国の改革開放政策40周年、そして改革開放の総設計師鄧小平氏の訪日40周年である。この節目に、日本の明治維新を振り返り、教育が明治維新、日本と中国に及ぼした影響について解析してみるというのもユニークな視座であろう。先ごろ、元文部科学副大臣で東京大学と慶応義塾大学で教授を務める鈴木寛氏を訪ね、これらのテーマをめぐり、話をうかがった。


撮影/本誌記者 倪亜敏

基礎教育の普及が国家の発展を左右する

—— 19世紀半ば、中日両国は欧米列強からの侵攻を受けました。その結果、中国は段階的に半封建半植民地社会の道を、日本は明治維新を経て、富国強兵の道を歩みました。教育という視点から、両国のこの違いをどう見ていますか。

鈴木 そうですね。当時の日本は様々な危機的局面に直面していました。しかし、明治維新の指導者たちは、中英のアヘン戦争で欧米列強が中国をどう扱っているかを徹底的に研究しました。日本は中国と同じ轍を踏まないようにしっかりと準備をしたということです。

当時の日本は、江戸幕府である徳川家はフランス勢力を、薩摩長州藩はイギリス勢力を支持し、フランス派とイギリス派に二分されていました。西郷隆盛をはじめとする指導者たちは、中国がアヘン戦争後に列強諸国の植民地となったことを教訓とし、国が分裂するようなことがあってはならないと強く認識したのです。国が二分したままであれば、イギリスとフランスはこの機に乗じて日本を植民地として山分けするだろうと。そして、日本の分裂状態は、江戸の「無血開城」という形で終結し、明治維新によって日本は再び一つになったのです。

中国清朝は新興近代国家となるべきところが、極めて前近代的な王朝のまま終わりました。日本と清朝とでは、近代化路線において大きな隔たりがありました。特に、孫中山が活躍する以前、中国ではほとんど近代化への動きはありませんでした。日本は富国強兵政策を支柱とした明治維新によって、徹底して近代化、工業化、西洋の近代教育普及への道を歩みました。

歴史を遡れば、中国の古代の科挙制度も、優れた教育によって多くの精英を育てました。ところが、中国と日本では近代化への道のりが異なりました。その鍵は、農民百姓にまで遍く教育を授けたかどうかでした。江戸時代、日本には全国で数千の私塾「寺子屋」があり、識字率は世界一を誇りました。明治維新という歴史の大転換期にあって、農民出身の「奇兵隊」が武士階級を転覆させ、明治維新の導火線となったことも、教育の重要性を物語っています。

明治維新から30年が経過した1900年、日本の基礎教育の普及率は90%に達していました。通常、教育の普及は戦争終結後に着手するものですが、日本は例外と言えます。明治2年(1869年)、日本は学校制度を導入しました。戊辰戦争当時、京都ではすでに新式の学校が誕生していました。これは、教育を国家の最重要課題とした明治の遠見の指導者たちによるものではないでしょうか。

したがって、発展途上国も先進国も基礎教育の普及率を可能な限り100%に押し上げるべきです。

鄧小平の「改革開放」と福沢諭吉の「実学」

—— 明治維新と中国の改革開放の関連性についてはどうお考えですか。

鈴木 アメリカの「黒船」は1853年に江戸湾に来港しました。「黒船」は、安価で効率的に大量の鉄鋼を生産する工業社会の象徴でした。「黒船」の来航によって、工業文明というものが生々しく日本人の眼前に迫ってきたのです。

当時、政府の要衝は江戸湾に近く、薩摩藩も長州藩も欧米列強の大砲には苦汁をなめ、農民から統治階級に至るまで日本社会全体が、大砲の生産、鉄鋼の生産加工能力において欧米の列強諸国に大きく後れを取っていることを深く認識していました。その恐怖から、日本は積極的に工業化を進めたのです。

明治維新の元勲たちは、若き日に列強諸国との隔たりを強く感じていました。吉田松陰は門下生を連れて黒船に乗り込み密航を企て、門下生たちは間近に工業国の強大さを実感したのです。そして、明治政府は発足するとすぐに岩倉使節団を欧米諸国に派遣しました。

今年は当時副総理であった鄧小平氏の訪日から40周年です。鄧小平氏は日本で先進の科学技術を学び、新幹線に乗り、松下電器、日産自動車、新日鉄等の有名企業を訪問し、中国に戻ると改革開放政策を推進しました。鄧小平氏の改革開放政策の思想と、明治期の著名な教育家である福沢諭吉が唱えた「実学」には通じ合うところがあります。

明治維新の政治闘争においても、政治体制、憲法、自由民権運動等をめぐって様々な議論がなされ、それによって確実に国民の生活水準は向上しました。福沢諭吉は英国の民族主義を唱導し、バランスを保ちながら、過度に政治に踏み込むことはせず、むしろ、工業の発展に力を注ぎ続けました。慶応義塾大学の福沢諭吉の生徒達も「実学」の精神に則って、工業国家の振興に取り組みました。

鄧小平氏の「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」との言葉は、「社会主義」か「資本主義」かのイデオロギー論争に終止符を打ちました。科学文明を取り入れるのであれば、まず国民の生活を物質的に豊かにしなければならないというのが鄧小平思想の核心であり、まったくの正論です。

日本の近代化は終焉し、第三の時代へ

—— 明治維新から現在までの150年の日本の近現代化の歴史を振り返ってきましたが、日本の今後についての展望はいかがでしょうか。

鈴木 第二次世界大戦を分水嶺として、過去150年は二つの時代に区分できると考えます。第一の時代は明治維新から第二次世界大戦の始まりまでの約70年間で、第二の時代は第二次世界大戦終結から現在までの約70年間です。2020年以降は第三の時代を迎えます。

日本は現在、次の時代を考える重要な歴史的段階にあります。過去150年の歴史を振り返り、今後100年、150年に向けた構想を練る必要があります。日本の近代化の歴史はわずか150年です。イギリスやアメリカは250年。世界史のマクロ的視点から見て、世界はこの250年間経験したことのない新たな時代を迎えようとしています。私はこれを「近代を卒業する」と呼んでいます。

日本は、第一の時代には「富国強兵」を成し遂げ、第二の時代には高度経済成長を実現しました。そして、第三の時代を間もなく迎えます。それは日本が高度経済成長時代を「卒業」することを意味します。同時に国際社会はいま、国連の持続可能な開発目標(SDGs)に呼応しています。明治の時代には「富国強兵」イコール幸福とされ、戦後は経済発展イコール幸福とされました。間もなく訪れる第三の時代に、我々は真の幸福とは何かを再定義し、そこから価値を創造していく必要があります。

今後70年乃至100年の間に、新たな価値観を核とした哲学が再構築されるでしょう。むろん持続的な経済発展は重要ですが、価値観創出の重要性もいや増して高まっています。近代化の過程において、日本はイギリス、フランス、アメリカをお手本にしてきました。しかし、「近代を卒業」した後の世界史は白紙の状態です。日本に頼みとするお手本は存在しません。ある意味、日本は課題先進国です。日本は世界の国々と手を携えて新たな歴史を切り開く責務を担っているのです。

—— 間もなく始まる第三の時代、日本はどのような道を進み、どのような準備をすればよいのでしょうか。

鈴木 今の時代は「VUCAの時代」(Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、 Ambiguity(曖昧性)の頭文字)と呼ばれます。複雑性と不確実性が深刻化する時代です。人々は自分たちが通ってきた道しかわかりません。眼前の道は右へ行けばよいのか左へ行けば良いのか、それとも真っ直ぐ進めばよいのか。我々は暗中模索しながら新たな道を切り拓いていかなければならないのです。

高度経済成長期を生きてきた、我々の世代や上の世代の人たちが価値観を変えることは容易ではありません。「近代を卒業する」とは、ある意味この年代の人たちが従来の価値観から卒業することなのです。

明治維新も第二次世界大戦も、若者たちによって描かれた歴史です。これからの歴史も若者たちによって創造されます。我々はできる限り彼らの考えや実践を支持し、彼らが失敗を恐れず大胆にチャレンジし、伸び伸びと成長できるよう教育、養成していくべきです。

30年後、中国は陸続とノーベル賞受賞者を輩出

—— 2018年までに、日本は26人のノーベル賞受賞者を輩出しています。率直に言って、中国人は心中穏やかではありません。中国も、今後同じようにノーベル賞受賞者を輩出することができるしょうか。

鈴木 まず、中国は今、ノーベル賞受賞者が少ないからといって気にする必要はありません。あと30年もすれば、中国も毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出するようになるでしょう。

2000年以降、中国は科学技術研究にしっかり予算を付けています。2018年度は、量的にも質的にも益々充実しています。

一般的に、研究者が30歳から40歳代で行った研究が、70歳から80歳代になって実を結び、ノーベル賞の受賞につながっています。そう考えると、2020年頃から中国の若手研究者の成果は顕著になり、20年から30年後にはノーベル賞受賞者が陸続と出るようになるのではないでしょうか。

2010年以降、中国の科学技術政策は、間違いなく躍進していますが、多くのノーベル賞受賞者を輩出したいならば、若い研究者たちに、さらに研究テーマの選択の自由を与えることが必要といえます。