山本 一力 直木賞作家
日本人が知らない中国を小説に——相互理解への道

時代小説の人気作家として知られる山本一力(やまもと・いちりき、1948年生まれ)氏は、作家を志す以前はさまざまな職歴の持ち主でもある。1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞し、遅咲きの作家デビューを果たしたが、2002年に『あかね空』で第126回直木賞を受賞した。その山本氏が今、中国に現地取材し、中国を舞台にした職人物小説に挑戦している。その動機とは何か、いったい中国の何が氏の心を突き動かしたのか、作家の新境地を語っていただいた。

 
撮影/本誌首席記者 張桐

作家になった理由

—— 先生はいろいろご苦労された後に作家になられて、直木賞も受賞されました。直木賞は中国でいえば、茅盾文学賞(中国作家協会主催、4年に一度開催)に匹敵する賞です。先生が作家を志された理由は何ですか。

山本 それはもうはっきりしています。家内と結婚した頃、日本経済はバブルでめちゃくちゃになっていて、そんな中で、家内の実家が銀座にありましたものですから、土地の値段が正気の沙汰でなく、それの相続で大変なことになりました。当時、ビデオ制作の会社を続けながら、相続の手伝いをしていくことを考えたのですが、私には経営のかじ取り能力が全くなくて、結果的に、何億もの借金を抱えて倒産することになりました。

それは、とてもサラリーマンの勤めで返せる金額ではありません。自分たちが食べていくのでやっとでした。それで、どうすれば返せるのかと考えたときに、私は本を読むのが本当に好きでしたから、物書きになってベストセラーを出したら、それで借金を返せるだろうと簡単に考えたのです。それで物書きを目指して、何とか直木賞に届くことができて、それで借金を返し始めることができました。

 

茅台酒の中国

—— 今度、弊社の新刊『中国の「赤い白酒」―茅台酒の奇跡』に序文をいただきましたが、先生は茅台酒をどのように評価されていますか。

山本 私は酒を一滴も飲めないんですよ。

 

—— そうなんですか。飲めそうなお顔に見えますが。(笑)

山本 顔で決めないでください(笑)。生まれが酒飲みの国の土佐(高知県)ですから、そう思われてもしようがないですが、ただ、飲めなくても、いかにその酒がうまいか、酒にはどういう効能があるか、酒のことが書けなければ作家ではありません。

茅台酒に関しては、関係会社の黄さんと銀座で一緒に食事をしたことがありました。そのとき某出版社の編集者が、今から30年ほど前に中国を取材したときに買った茅台酒を黄さんと会うというので持ってきました。いわゆる30年ものです。黄さんは大いに喜んで、「これは本物だ」と言いながら、全員で全部飲んでしまったんです。黄さんは空瓶まで持ち帰りました。あの時のフルーティーで清らかな香りは素晴らしかった。

 

—— 瓶だけで1万円の価値があります。

山本 茅台酒というのは、単に酒でありながら、もう酒という領域を越えていますよね、国を代表する「国酒」なわけですから。酒が国の名誉を背負って、外交の席などで人と人との橋渡しができるということは、すごいことです。

では、なぜそんなことができるかといえば、後ろに背負っている長い歴史がある。そこに積み重ねてきた時間と人の知恵と、それから茅台をつくるための風土。そういうことを全部積み重ねていって生まれた酒です。日本にも、いろんな日本酒はありますが、茅台酒が体現しているような、国の名誉を背負っているというところまではいってません。

 

中国に感嘆!

—— 今後、中国について小説を書く予定はありますか。

山本 たくさんあります。実は今、中国の事を勉強会で教わっています。自分が中国を舞台にした小説を書くなんて考えてもいなかったので、出版社から強く求められても、私の分野ではないからと、断っていたんです。でも、再度口説かれて、これ以上断るのは無礼だと思い、私がやれる範疇でということで引き受けました。そして、中国の事を全く知らないから勉強をさせてほしいといったら、出版社が、大学の先生を呼んで勉強会を始めたんです。

その第1回目の勉強会で、中国文明の起こりである殷、周の時代の象徴的な青銅器文明の話を聞いて、ぶっとんじゃった。紀元前三千年も前にあんな精巧な青銅器をつくっていたということを、本当に知らなかった。この青銅器をつくった職人にはものすごく興味があります。それで、中国の職人物を時代を問わず書こうと決めました。

実は、昨年から今年にかけて、立て続けに3回、中国へ取材に行きました。最初は北京で、2度目が北京、西安、蘇州。3度目が上海です。行くたびに「中国がわれわれの文化の師匠なんだ」ということを痛感します。

一番それを強く感じたのは、西安に行ったときでした。今、西安に残っているあの城壁、あれだけでも14キロあるそうです。しかも、それは明の時代のものです。唐の時代の城壁は、あの何倍ということになる。

日本は隋、唐の時代に遣隋使、遣唐使を派遣します。学んで、持ち帰ってきて、平城京と平安京が順にできる。これは当然、長安(今の西安)をもとにしてやったことです。ですが、その規模においても、その中の仕組みにおいても、とてもまねのできるサイズではありません。もう桁が違います。大和国の奈良に都はありましたけれども、せいぜい寺院があるぐらいで、律令制度もまだ確立されていません。そんな時代です。私が一番強く思ったのは阿倍仲麻呂のことです。

阿倍仲麻呂が唐へ行ったのは717年、玄宗皇帝の時代で19歳の時です。19歳というのは、ものすごく多感な時です。人間の知能レベルが高ければ高いほど、大きなものに対しての畏怖の念を覚える。人間が小物だと、大きなものに対して理解できないから、自分の矮小化した世界と比べてしまいます。

阿倍仲麻呂は優秀な人間ですから、玄宗皇帝の勧めに従って科挙を受け、見事合格します。合格したら今度は、宦官でないと就くことができなかった官吏の上級職まで上り詰めます。それだけの地位を得て、いろんなものを吸収して、さあ帰って大和国で力を発揮したいと思い、帰国を願い出るのですが、玄宗皇帝は「ダメ。お前はいなさい」と言って、2度まで返してもらえませんでした。ようやく帰れることになったときには、53歳になっていました。

さあ、いよいよ明日は船で帰れるという夜に、出ている月を見て、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という1首を読みます。これを日本の多くの歌の分野の人たちは望郷の歌だと言っていますが、私は絶対違うと思います。西安の興慶宮公園に立って、阿倍仲麻呂の碑を見たときに、これはそんなしょぼいことじゃない、自分が学んだことを全部日本の役に立てたい、帰ったらこれを役に立てられるから、早く帰りたいという歌だと確信しました。ところがその船が難破し、阿倍仲麻呂はついに帰国を果たせず、770年に中国で客死するのですが……。

 

認めあうという相互理解

—— 中国の印象はいかがですか。

山本 私も昨年からまだわずか3回ですが、中国へ行って、自分がいかにものを知らなかったかというのを思い知りました。最初に行った北京では、天安門があって、人民大会堂があって、その向かい側に国立の博物館があって、大きな広場がありますね。あれだけの建物を同時に10個つくったというわけでしょう。しかもほとんど人力に近いような形で。

 

—— 1959年、新中国建国10周年を記念してつくられた十大建築物ですね。

山本 上上海でも軌道交通17号線に乗って、終点にあるのが海洋博物館(China Maritime Museum)ですが、もう度肝を抜かれました。中に入ったらジャンク船の原寸大の模型が飾ってある。

世界史でいうところの大航海時代は、スペイン・ポルトガルによる15世紀のことです。しかし、その大航海に先駆けること2世紀――13世紀に中国はすでにエジプトなどアフリカへあのジャンク船で行っていたんです。こういうことを日本人は、ほとんど知りません。日本人は知らないことが多数あり、何か中国を誤解しているところがあると思います。中国と日本両国にとって、お互いに相手を知ることが一番大事なことです。

 

—— 相互理解が実は一番難しい。

山本 完璧に理解し合うというのは、私はあり得ないと思います。よって立つものが違います。中国というあの大きな大陸の中ではOKであっても、日本ではノーということは幾らでもあります。でも、それはあって当然です。お互いが相手を認める。自分の中に取り込む、取り込まないではなしに、相手がやっていることを、それもあるなと呑めるかどうかです。