清水 マリ 声優・女優
鉄腕アトムと過ごした40年

1963年1月1日から4年間、フジテレビ系列で放映された『鉄腕アトム』は日本のアニメーションの歴史を一変させた手塚治虫の金字塔のひとつといえよう。清水マリさんは、この作品の主人公アトムの声を、最初から2003年4月6日(アトムの誕生日)に交代するまで40年間つとめた。現在、声優事務所81プロデュース(代表:南沢道義)に所属し、中国でも有名な、声優界のさきがけである清水さんに、声優人生の思い出と声優を志す若い人たちへのアドバイスを伺うため、名誉館長を務める声優ミュージアムを訪ねた。

 
撮影/本誌記者 郭子川 

「アトムに魂が入ったよ!」

—— 中国では日本の漫画、アニメが大変な人気です。「声優の母」清水さんは、中国でも有名です。なぜ声優というお仕事を選ばれたのですか。

清水 私がこの仕事に就いたのは、実は声優という職業が全くない時代でした。戦後間もない頃のことで、そういうものに携わりたいと思うと、映画界に行くか、劇団で芝居をやるか、NHKの放送劇団に入るか、そのぐらいしか道はありませんでした。

それで私は、「芝居がやりたい」ということで、劇団の舞台女優になるため、俳優座の養成所を卒業(7期生)して、劇団新人会というところに入りました。そこの研究生をしているときに、『鉄腕アトム』という国産初のテレビアニメーションの、テレビ局に提案するためのパイロット版をつくるという話が来たのです。

そのときにピックアップされまして、手塚治虫先生のところへ呼ばれました。ところが私は芝居をやりたかったので、スタニスラフスキーとかサルトルとか、そういう演劇関係の本は知っていたのですが、『鉄腕アトム』は知りませんでした(笑)。それで慌てて漫画を読みました。それで「あ、ロボットなんだ。この男の子の声なんだ」と下調べをしてから伺ったんです。

パイロット版でのセリフ収録の時でした。ベートーヴェンの『運命』(交響曲第5番)が流れて、男の子のロボットがパッと目を開けて、ベッドから降りて、それから天馬博士の方に向かって歩いていくシーンの「お父さん…」という、この声を出せと言われました。それで声を出したら、手塚先生が「アトムに魂が入ったよ!」って、すごく喜んでくださったんです。ロボットってどんな声出すのか分からなかったのですけどね(笑)。

 

—— 手塚先生の第一印象はいかがでしたか。

清水 優しい方でした(笑)。ベレー帽をかぶって、眼鏡をかけて、眼鏡の奥が本当に優しくて。初めてお会いするので、こっちもどきどきしていたのですが、その緊張もさっとほぐしていただきました。私はあまり年が離れていないものだから、優しいお兄様に会ったようなそんな気分でした(笑)。

 

2年の予定が4年に

—— 声優業は、当時は珍しい職業なわけですね。どのような思い出がありますか。

清水 『アトム』が始まったときは、まだ劇団にいたので、自分の中では舞台が本業で、声優はアルバイト的な感覚だったんです。もう本当に舞台を一生懸命やっていたので、舞台で関西に行ったりすると、ディレクターの別所(孝治)さんが録音機の大きな機材を担いで、わざわざ関西まで録音に来てくださったこともありました。

それから、私は当時もう結婚していたのですが、『アトム』の放映予定は最初は2年というので、「2年間は子供を産まないでください」って言われていました。それで2年目の終わりに出産するはめになったんです(笑)。ところが、何か評判がいいし、あと2年続きますということになって(笑)。

私はもうそのときに覚悟を決めて、ここで降りても、誰か別の方がやるだろうなと思いました。それは私の友達の田上和枝さんが代わってやってくれました(第97話~106話)。

それを私たちが聞いても分からないんですが、子供には分かったようで、「アトムの声が何で変わっちゃったの」という声が、テレビ局にいっぱい届きました。それで別所さんに、「早く元に戻ってください」と言われて、結果的には産んで4週間もたたないで、復帰したんです(笑)。

声優になったのは、子供が生まれた後です。劇団は地方公演があるものですから、子供を背負っていくわけにも置いていくわけにもいかないので、決心して劇団をやめました。そこから声優1本でやって行くことになりました。アトムは4年間毎週1本、全部で196本ぐらいやりました。

 

熱心な中国の若者たち

—— 初めて中国に行かれたのはいつですか。

清水 数年前、日中国交正常化40周年記念のアニメソング(アニソン)の会が北京でありまして、南沢さんに連れて行っていただき、とても楽しかったです。会では、北京の日本大使館や、あとは大きな劇場などでいろいろなことをやっていましたが、そういうところで一番びっくりしたのは、一緒に見ている中国の若い方たちの日本語がとてもお上手なんです。「なぜ?」と聞いたら、「日本のアニメーションで日本語の勉強をしている」というお子さんばかりなんです。

とても前向きに一生懸命いろんな国の言葉を覚えて、参加していく若者を見ていると、自分の国の言葉以外のものにあんなに熱心に向き合うというのは素晴らしいと思いました。

 

—— 中国には今まさに日本のアニメ、漫画が大好きな人達がいて、日本に留学するほどです。

清水 東京に声優や音響技術をお教えする学校があって、私も授業を受け持っているのですが、そこに中国からの留学生が何人もいるんです。みんなすごく努力していて、一生懸命やっていらっしゃる。すごく熱心です。

 

声優は個性を大事にしてほしい

—— 今年は、日中平和友好条約締結40周年、昨年は日中国交正常化45周年でした。今後ますます日中間のアニメ交流は盛んになっていくと思います。そうした中で、日本と中国の若い声優さんに、大先輩として、声優として完成されている清水さんからメッセージをいただけますか。

清水 いやいや、完成されていないですよ(笑)。なかなか役者というのは奥が深く、まだまだ足らないところだらけで、何でこんなこと知らなかったのかしらみたいなことばかりです。ですからそういう意味ではもう、「これでいいんだ」ということは絶対にないんです。私も完成されたくないんです(笑)。

若い人たちは、いろんなことを目指すと思いますが、その中で、やっぱり興味をいっぱい持って、どんどんいろんなことを勉強していくというか、声優だけ、マイクの前だけが世界ではなく、いろんなものをうんと勉強しながら、自分が膨らむことによって表現も豊かになるという、そういうものを身に付けていかれたらいいんじゃないかと思います。

また、今の人たちは声優という職業ががっちりでき上がったところで声優というものを見ていると思います。そうすると、みんな声優が出している声のまねをすればいいんだというところがあるのではないでしょうか。

ですから日本の声優さんもそうなんですけど、個性がなくなってしまって、みんな同じような感じになるのが、ちょっともったいないなと思います。もっと自分たちの個性を大事にした声優さんが生まれてくる方がいいんです。1人1人がもっと自分を磨いて、もっといろんな角度でやっていけるようになったら、すごくいいなと思います。

 

—— そういうお気持ちですから、若々しくて、もちろん職業柄かもしれませんけれども、お声にも張りがあるんですね。

清水 おかげさまで今、朗読教室などいっぱいやらせていただくので、何がいいって、一緒に発生練習をさせてもらっていることです。大きな声で発生練習を若い生徒さんと一緒にやっているので、いつまでも声の張りが落ちないんです(笑)。

 

取材後記

実は声優という言葉がマスコミに登場するのは1970年代半ばのことで、声の仕事を中心にやる俳優ということで、「声優」と呼ばれるようになった。清水さんが仕事を始めた1963年当時は15分のロールを一挙に録音したという。途中で誰かが間違えると、常に最初から録音し直さなければならなかった。まさに真剣勝負だった。そうした先人たちの奮闘があったからこそ、今の声優ブームにつながっているのだと感じた。