松谷 孝征 株式会社手塚プロダクション代表取締役社長
手塚治虫の心を中国に伝えたい

手塚治虫(1928~1989、享年60)は日本人ならだれでも知っている「漫画の神様」である。戦後日本のストーリー漫画の第一人者であり、今日の日本のマンガ文化、アニメ文化の隆盛を切り拓いた功績は大きい。手塚プロダクションは手塚が1968年、漫画制作のために設立した会社で、手塚没後もその志を引き継ぎ、手塚作品を世界に向けて発信し続けている。先ごろ、松谷孝征社長に手塚治虫の思い出、中国でのビジネス展開等について伺った。

 
撮影/本誌記者 洪倩 

仕事に対しての使命感

—— 松谷社長は編集者として手塚先生と出会われ、その後、1973年に手塚プロダクションに入社、85年には社長に就任され、今現在も手塚ワールドを世界に広げておられます。手塚先生に初めて会われたときの印象はいかがでしたか。

松谷 本当に生真面目な人だなあという印象でした。初めて会うような人にもとても丁寧に応対してくれました。いわゆるトキワ荘のグループ、藤子不二雄(藤本弘安孫子素雄両氏のコンビ)さんだとか、石ノ森(当時「石森」)章太郎さんとか、赤塚不二夫さんとか、手塚は彼らを呼ぶときに、みんな「氏」をつけるんです。私のことも「松谷氏」と言う。あの「氏」というのはすごくいい(笑)。「松谷君」というと下に見ているような感じで、我孫子氏とか、藤本氏とか、石森氏とか。上品な環境で育った人なんだなと感じました。

 

—— 手塚先生から学ばれたことは何でしょうか。

松谷 必死さというか、仕事に対する執着心というか、決して生きることを放棄しないというか……。漫画が好きだというのもあるでしょうが、仕事に対しての使命感に近いようなものを感じました。本当にめちゃくちゃな状況が毎日続いて、そんなときでもなおかつ、「次、どこか雑誌を決めてください」と言われたことが時々ありました。

週に2回ぐらいしか家に帰れないんです。ずっと泊まり込みです。仕事場には編集者がいて、アシスタントが7、8人座る椅子があって、隅の方には3畳間ぐらいの畳が敷いてありました。寝室ですが、「15分ごとに声をかけてください」と言うのです。今やっている雑誌の編集者のほかに2人ぐらい、まだ次の原稿を待っていますから、その手前「3時間寝かせて」なんて言えない。夜中の12時頃から朝の5時頃まで15分ごとに声をかけて、寝転がったまま、うつ伏せになって、カリカリカリカリ描きます。「音がしない」と編集者に言われて、また声をかけたりしました。

でも、そんなことをやっていたら、朝の5時頃までに数ページしか進まなくて、次の編集者がちょっと味方してくれて、「俺らのときにボロ雑巾みたいな先生にするんじゃないぞ。寝かせてやれよ」と(笑)。だから夜は3時間ぐらいは寝るようになりました。

 

—— 手塚作品の根底にあるキーワードは何ですか。

松谷 さきほど「使命感に近いようなもの」と言いましたが、やはり日本の場合、戦争体験をしているというのがものすごく大きいのではと思います。手塚は終戦のとき(1945年)、17歳でした。学徒動員で、ちょうど大阪に行っていたときです。そこでものすごい風景を見た。バタバタ人が死んで、焼け野原になっていたり、牛や馬が死んでいたり、恐ろしい思いをさんざんしました。

戦争がいかに悲惨か。未来人――手塚は子供たちを「未来人」というふうによく言いました――に対して、自分が体験したことを絶対に伝えなければならない。命というのはとても大切だ――人間だけじゃなくて、動物であろうと、草木であろうと、地球だって生きているんだという、そういうことを子供たちに伝えたいという思いがありました。ですから手塚のどの作品を読んでも、必ず命の尊さ、戦争の悲惨さが、必ずどこかに出てきます。その思いがものすごく強かったので、幾らでも書こうと思ったんでしょうね。

 

漫画とアニメは国境を越える

—— 中国最初にしてアジア初の長編アニメの『西遊記 鉄扇公主の巻』ですが、監督が万氏(Wan)兄弟で、この作品は手塚先生に影響を与えたと言われています。

松谷 そのとおりです。手塚自身もものすごく感動したと本に書いています。恐らく手塚が中学生ぐらいの頃に見ています。手塚は万籟鳴さんに感動し、アニメは素晴らしい、いつか絶対にアニメをつくるんだと書いています。

1988年に上海で国際的なアニメのお祭りがあり、アジア大陸で初めての国際的なアニメの祭典で、手塚が審査員に選ばれて、上海を訪れる機会がありました。連載をかかえて、めちゃくちゃに忙しいなか、その上体調もひどいなか、皆が反対したのに上海に行きました。そして、上海美術映画に行き、万籟鳴先生たちとも会いました。

手塚は中国のことをとても大切に思っていました。ですから、イベントに出て11月末に帰ってきて、そのまま病院に入き、退院せずに翌1989年の2月9日に亡くなっているんです。そのくらい国際交流を、アニメを、そして中国を大切にしていました。

何よりも戦争を起こしてはいけない、平和がいかに大切かというのを身を持って示すためには、国際交流が絶対に必要なんだといつも話していました。中国だけではなく、晩年はヨーロッパやアメリカなどでも、「漫画とアニメは国境を越えます」と言って、よく海外へ出かけ、講演や交流をしていました。

 

北京写楽――中国での活動

—— 昨年が日中国交正常化45周年、今年が平和友好条約締結40周年ですが、御社は早い時期から中国に進出されています。北京写楽(美術芸術品有限公司)など、これまでの中国での活動について教えてください。

松谷 手塚が亡くなった当時は、中国で映像を撮るのがはやっていた時期で、日本のロケ班を案内するのが仕事の中国人がいました。その彼が北京に帰ることになりました。私はこれも何かの縁だと思い、中国でアニメの仕事をやるのなら一緒にやろうと言いました。北京写楽は29年前に発足しました。そこを私は手塚がやっていた国際交流の拠点にしたいと思ったのです。

北京写楽では、アニメーションの技術を中国に普及しようと考えました。当時集まったのは素人みたいな子ばかりで、日本から2人ぐらい行って指導しなければいけませんでした。その後、ここ15、6年前から急激に中国がアニメに目を向けるようになり、中国国内に30カ所くらい拠点が広がりました。現在、「北京写楽卒業生」はすでに2000人はいます。

 

日中間コンテンツビジネス

—— 今、日中間のコンテンツビジネスが盛り上がっている中で、アトムを中国でリメイクしたいとう中国企業もあるようです。

松谷 いろいろ話が来ております。現在、手塚治虫生誕90周年(1928年11月3日生まれ)記念事業として、中国で展開しようと考えているのは、『ブラックジャック』の映画化、幼児向けテレビアニメ『リトルアストロボーイ』の商品化、中国のオリジナル作品のアニメ化などがあります。イベント関連では、北京で「手塚治虫展」を企画しています。また、漫画「火の鳥」「ブラックジャック」や書籍『ガラスの地球をすくえ』『漫画の描き方』『ぼくはマンガ家』などの翻訳出版や月刊漫画書籍『手塚MIX』の創刊を計画しています。そして、漫画カフェ内にて手塚治虫の全集がスマホなど自分の端末で読める手塚治虫漫画電子図書館サービス、さらに手塚作品をすべてそろえた「手塚治虫書店」の開設など「漫画の楽しみ方」を提案しています。また、日本へのインバウンド事業をからめた形で中国人観光客向けのサービスも構築中です。

 

—— 中国の手塚ファンに向けて、メッセージをお願いします。

松谷 手塚がよくトキワ荘の後輩たちに話していて、私がとてもいいなあと思ったのは、「あなた方、漫画家になりたいのだったら、漫画で勉強しなさんな。あらゆる小説を読みなさい。音楽を聞きなさい。舞台を見なさい。それから美術も見なさい。それが絶対に作品に反映されますから」という言葉です。赤塚不二夫さんは死ぬ直前まで、手塚先生にこれを教わったから、とても良かったという話をしていました。

そして自分は何を書きたいのか、絵が好きだから描いているというのではなくて、それを描くというのは、一体自分にとって何なのか。手塚治虫にとっては、子供たちに自分のメッセージ――戦争反対、生命の尊さ、平和の大切さ――を絶対に伝えたいと思ったから描いたのでしょう。それがあったから長続きしたのだと思います。