伊勢﨑 淳 人間国宝 
800年以上の歴史を持つ天人合一の陶芸——備前焼


撮影/本誌記者 張桐

村田珠光はご存知のように日本の茶道の始祖である。彼は幼い時に浄土宗の寺に入れられ、京都に行き大徳寺の一休宗純に参禅した。茶と禅とを結び付け、日本の茶事に深遠な思想の奥行きを持たせ、ここから茶道も「在家禅」の一つとなり、「茶禅一味」といわれるようになった。

村田珠光が自身の一番弟子であり、戦国時代の名僧である武将の古市澄胤に宛てた書信はのちに『師の心の文』と呼ばれた。その中で彼は「当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり」、つまり、村田珠光の心中では、備前焼、信楽焼と中国からの茶器–「唐物」とを同等に見ており、互いに相通じるところがあると考えていたのだ。

2017年9月、中国の紫砂を原料とする焼き締めの伝統工芸の職人であり、宣興市承相紫砂研究所所長である宋少鵬氏が「人間国宝」に会いに来日した。伊勢﨑淳先生は伊部で息子である伊勢﨑晃一郎氏に古窯などの案内をさせ、自身は東京で宋少鵬氏と会い、焼き締めの制作の技術と職人の気構えについて語った。

備前焼は日本のオリジナルであり、「唐物」つまり中国や朝鮮の陶磁器の影響を受けていないが、焼き締めの窯変や釉薬を施さないこと、すべて現地独自の天然の土を材料としていることなど、備前焼と宋所長が制作中の紫砂柴焼とは多くの共通点がある。伊勢﨑先生は宋所長が持参した中国の柴焼を認めて称賛し、さらに焼き締めの中の最も重要な五大要素であると考える土、水、風、人を分かち合っているとした。先日、宋所長の推薦をいただいて、私は岡山県備前市伊部地区に向かい、日本の重要な無形文化財、「人間国宝」と呼ばれる備前焼の伊勢﨑淳先生にインタビューさせていただいた。

 

唯一生存する備前焼の人間国宝

伊勢﨑淳先生は代々陶芸家の家に生まれた。父である伊勢﨑陽山は有名な陶芸家であり、備前焼の岡山県の重要無形文化財の保持者である。その作品には花器、水瓶、香炉、茶器などだけでなく、備前焼の技法によって制作された大型の高杉晋作像、和気清麻呂像、和気広虫像などもある。伊勢﨑淳先生は伊勢﨑陽山氏の次男であるが、長男の伊勢﨑満也氏もまた陶芸家として名を馳せている。父子三人は1960年にともに姑耶山中の古窯を調査し復元した。

備前焼の分野では、金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢﨑淳という5人の人間国宝がいるが、存命で今も依然として旺盛な創作力を保っているのは伊勢﨑先生ただ一人となった。伊勢﨑淳先生は先人たちが積み重ね伝えてきた経験という遺産を活用し、不断に新しい表現形式を模索し、備前焼に新天地を開拓している。伝統的茶器だけではなく、多くの新しい造形の芸術品、装飾品を創造し、国内外から注目されている。

伊勢﨑先生は今年81歳になる。毎朝8時に起き、8時半には門下の弟子たちを連れて土を採集し始め、午後5時半まで仕事をする。インタビューの日、伊勢﨑淳先生とわれわれは朝8時半に約束をした。

伊勢﨑淳先生の住んでいる備前市伊部地区は、備前焼の最大かつ最も著名な生産地であるため、備前焼は別名「伊部焼」とも呼ばれる。「備前焼が伊部地区に集中しているのは、ここの土が最も適しているからです。備前焼で使用している土は地近辺の山の岩石が数十万年を経て風化し、雨水によって山の上から流れて沈殿した粘土層で、浅いところで1メートルくらい、深いところで3、4メートルほどを掘らなければなりません。粘土には豊富な鉄分が含まれ、また多くの有機物や石が混入していて、土の性質は荒く張りがあるが、火に弱く、収縮しやすいので、急激な温度変化に遭うと割れてしまうため、昔の大窯では1カ月から2カ月という時間をかけて焼きます。現在の窯でも10日から2週間ほど焼きます。備前焼の800年あまりの歴史の中で、先人たちは心血を注いで、この特殊な技術を編み出したのです」と伊勢﨑淳先生は語る。水と土が人を育てるというが、老先生のお話に、私は水と土が工芸をも成就させると気づいた。

 

備前焼は風土と匠の精神の結晶

近年「匠の精神」が中国でよく聞かれるようになってきた。李克強総理の『政府業務報告』に「匠の精神」が使われただけでなく、『人民日報』でも「心に一人の<匠>を住まわせよう」と呼びかけた。

備前焼の制作は、さらに匠の精神から切り離せない。備前焼は今日に至っても量産することができない芸術品であり、制作過程のすべてに匠自身の力を必要とする。

伊勢﨑淳先生は言う。「備前焼の制作過程は職人の研究と素材であり、また土を理解する、土の特質を知ることで、さらに成形の手法と焼きの技術によって、土の特質を最大に生かす過程です。備前焼の作品には、日本の大自然と風土が秘められており、また職人の心と感性が表現されています。土、火、風、水という自然界の四大要素に加え、備前焼にはさらに職人の気持ちが込められています。備前焼の職人が、どのように土を採取し、粘土にし、作品成形後はどのように窯詰めするか、火はどうするか、風はどのように送るか、燃料の松の灰はどのように落とすか、作品にどんな色の変化をもたらすかなど、すべて長年の経験によるものです。火と土に互いに作用させることによって、世界に唯一の芸術作品が誕生します。それだけでなく、自然の力を借りなければなりません。私でも窯出しをする時には、予測もしていなかったどんな作品が出てくるか緊張しますし、期待もします」。

窯から出された備前焼は厳選され、千個以上の作品から選ばれるのは十数個だという。一つ一つが唯一無二であり、コピー不可能な芸術品なのだ。

 

備前焼はわび茶の精神世界と通じる

備前焼は釉薬を用いず、絵柄も描かないため、「窯変」こそが備前焼の魂であり、一つ一つの備前焼が複製できない鍵となっている。

伊勢﨑淳先生は部屋に陳列されている各色の作品を取りだし、よく見られる数種の「窯変」を説明してくれた。まずは「胡麻」だが、私に見せてくれた杯の表面にはゴマのような細かいぽつぽつがあり、これらのぽつぽつは金色で、まるで一粒一粒のゴマのようである。伊勢﨑淳先生は「これは窯で使う選ばれた松の木の灰が作品の表面に付着し、さらに高温で焼かれたために溶けた、一種の自然釉です」と教えてくれた。

伊勢﨑淳先生はさらに鮮明な色がついた金属の光沢を持つ花器を手に取った。これは「桟切」という。「これは松が燃え尽きた後の灰が集中してかかって、そこの空気が流れなくなり、炎がとどかなくなり、灰色から黒に色が変化し、火がその一面に当れば赤褐色になります」。

長方形の備前焼のお盆の上に置かれている二つの餅のようなものに気づいた。よく見ると、それは3D効果のような模様にすぎなかったので、笑ってしまった。伊勢﨑淳先生もつられて笑い、「これは面白いでしょう。作品を窯に入れる前に、上に二つの丸い塊を乗せたら、焼き上がってきた時にこのような窯変が現れます。これは牡丹餅と呼んでいます」。

伊勢﨑先生によると、備前焼の最大の魅力は、釉薬のないところに、これほど変化に富んだ、また独特の風格を持つ芸術品が制作できるというところにある。土、火、風、水の自然の四大要素に職人の知恵が加わっている、まさに天人合一の作品であり、日本の最も本質的な美意識を体現しているので、わび茶の精神世界にも通じるものがある。「近現代は科学技術の発展にともない、合理主義がはやり、大量生産・大量消費の資本主義社会が作らました。これと同時に、自然と共生する理念はますます希薄になっています。備前焼によって、古代の日本人がいかに自然と共生していたかを知ることができます。備前焼は人びとに大自然との共存共栄の精神を思い起こさせるものなのです」。

 

「人間国宝」は技術、そして心

伊勢﨑淳先生は、今までに3回中国を訪問しているという。「はじめて行ったのは念願の秦始皇帝陵と兵馬俑を見に行った時です。2回目は中国人留学生夫妻を助けたからなんです。このご夫婦は岡山大学の医学部と農学部にそれぞれ留学していたのですが、ご主人が足を折って中国で手術をしたものの、その後の経過が悪かったので、友人のいる岡山赤十字病院で手術をしてもらい、成功して元気になったのです。しかし次は奥さんが脊髄にがんができて北京で手術ができなくて、千葉の病院を予約しようとしたら、4カ月先と言われたということで、それでは遅すぎるので、私が岡山大学の医学部の友人に連絡してすぐに手術をしてもらったのですが、幸いにして悪性ではなく1カ月ほど入院して元気になって退院しました。二人とも今も元気にしています。お二人が私を中国に招待してくれたのです。3回目は友人と万里の長城に行きました」。

先生のお話を聞いて感激した。「人間国宝」でありながら、目の前でお話してくださる老先生は備前焼の分野で前人未到の境地に到達された名人である。しかし、「人間国宝」になるということは、技術が優れているからだけではなく、さらにすべての行動に真の至宝の心を持っていなければならないのだと思い至った。

ここまで考えて、私はこの人生の大先輩に人生哲学をうかがった。伊勢﨑淳先生は、「運鈍根」という言葉が好きだという。「運」も実力の一部であり、人生の半分は努力で、半分は運であること、「鈍」というのは愚鈍の鈍であり、努力を忘れず、得失ばかりを気にしないこと、「根」は根性であり、強い意思を持たなければならないということだという。

今回の訪問で、二つのこぼれ話に強い印象を受けた。これも私の心に深く残った。一つ目は、インタビューが始まる時に伊勢﨑淳先生が私と撮影チームにほどよい熱さのお茶と土地の銘菓である和菓子を出してくださったのだが、インタビューが一段落すると、先生はカメラマンを呼んで座るように言い、いっしょにお茶の飲みながらおしゃべりし、インタビュー終了後には、またお茶と和菓子を出してくださった。そして私たちが賞味するのを慈愛に満ちたまなざしで見守っていた。匠というのは冷たいものではなく、温情の人、情熱の人なのである。

二つ目は、伊勢﨑先生が長男の伊勢﨑晃一郎氏について語ったことである。晃一郎氏は長期間海外で彫刻を学んでいて、家業を継ぐ意思はなかった。伊勢﨑淳先生も息子にはできるだけ好きな道を進ませたいと思っていた。「私の一生は、ずっと私の一番好きなこと、『備前焼』ができました。ですから、私は死んだ後にすべてのものを整理し捨てて、息子には負担をかけないつもりでした。しかしある日、彼は私に、自分はやはり『備前焼』が好きだとわかったので、備前焼の職人になると決めたと言ったのです。もちろん私はうれしく思いました。彼が本当に好きなことをしてくれればそれでいいのです」。備前焼、この土と火の芸術は、伊勢﨑家の血脈の中に融け込み、日本文化の美しい花を咲かせているのである。