藤野 公孝 国際観光文化交流協会会長
日本の「観光立国」を推進した二人の和歌山県人

2011年3月11日、日本の東北地方を襲った地震と津波は多くの人びとの心に消えない傷を残した。その時、私はちょうど中国・西安で開催されていた西安国際園芸博覧会に招かれていたのだが、その際の日本代表団の副団長は第一次安倍内閣の国土交通政務官であり、現在は国際観光文化交流協会会長を務めている藤野公孝氏であった。私たちは同じ時、同じ場所で日本での大震災の発生を知り、同時に共に何もできない無力感を味わったのである。2015年3月3日、藤野公孝会長にお会いすると、自然と二人ともその当時の話になった。その後、藤野会長は日本が中国人の団体観光ビザを開放したことや、国策としての「観光立国」の推進、関係法案の成立などの舞台裏を明らかにしてくれた。

二階俊博氏は日中観光発展の恩人

―― 会長の官僚としての半生はずっと「観光」の二文字とともにあったと理解しています。中国に対する団体観光ビザの開放は会長が音頭を取って推進され、日本ではじめての「観光立国」に関する法案「観光立国推進基本法案」も会長が中心となって起草されました。今振り返っていかがですか。

藤野 私は国土交通省(旧運輸省)に満30年奉職しました。中国に対する団体観光ビザ開放に取り組んだ当初は不法就労や盗難事件等が新聞紙面を賑わしていたこともあり大小様々の反対に遭遇しました。しかしどんな時も当時の二階俊博運輸大臣がずっと私を激励してくださり、「藤野君、これは君の使命だよ! 君の天命だ! 」とまでおっしゃってくださいました。二階大臣に助けられて、私はどうにか使命を果たすことが出来ました。

私は何度も日中両国間を往復し、最後には日本政府全体で中国に対する団体観光ビザの開放に同意することになりましたが、二階先生こそが日中観光の未来を拓いた本当の“井戸を掘った人”なのです。

5000人訪中団の壮挙の裏に

―― 二階俊博先生は今年5月に3000人の訪中団を組織する計画ですが、二階先生が2000年に5000人の訪中団を率いた壮挙は、中国人に強い印象を与えました。当時会長は観光部長として事務方のトップでしたが、どのように実現したのですか。

藤野 2000年はミレニアムの年で、世界的にも特別な年でした。二階大臣訪中団の一員として正月明け早々に訪中しました。その時当時の谷野大使が「こんな記念すべき年に日中両国間ではこれといった行事がないのは本当に残念です」とおっしゃったのを聞いた二階大臣がすぐに「今年は2000年だから2000人を連れて訪中するぞ!」という豪胆な命令を私に下されました。

二階大臣は言われたことは必ず実行する方ですので、私はその実現に向けて悪戦苦闘の日々が始まりました。5カ月弱という短い時間では2000人も集めることは難しく、思案投首で困っていたときにある大手旅行会社の幹部が見えて「藤野部長、普段の旅行では見られない場所が見られるとか、普段の旅行では会えない人―例えば「書聖」として崇められている王羲之の子孫に会えるとか、今回の訪中旅行ならではの特典を用意してくれれば集めて見せるとの申越しを頂き、活路が拓けたのです。

私たちは官民挙げて全力で目標達成に取り組み、その結果最終的には当初の計画の2000人を遥かに超える5400人にのぼったのです。本当に壮挙でした。

観光立国の初提唱者は松下幸之助氏

―― 会長が推進された「観光立国推進基本法」は2007年1月に施行され、今では多くの東南アジアの国々で日本を見習って「観光立国」の国策を進めています。日本の「観光立国」という概念を最初に提唱したのは誰ですか。

藤野 日本ではじめて「観光立国」を提唱したのは「経営の神様」として中国でも有名な松下幸之助氏です。

松下氏は1954年5月号の「文芸春秋」誌上で、「観光立国の弁-石炭掘るよりホテル一つを」を発表し、「日本政府は観光事業を推進する観光省を新設し、総理、副総理に次ぐ重要ポストとして観光大臣を任命せよ」と提言しました。

松下氏は、大自然のなかから鉱物資源を採掘するより、各国の観光客を日本に誘致したほうが良く、そのためには一流ホテル設備、便利な交通、豊かな観光資源を作る必要があるとし、日本がそこから得られる最大の利益は平和国家として世界から尊敬されることと考え、日本は「観光立国」を国策とすべしと強調しました。

事実第二次世界大戦中にナチスはパリを爆撃しなかったし、米軍も奈良や京都を爆撃しなかった。それはそれらの都市が有する文化、景観、建築等がかけがえのない人類共有の財産であると敵国も認めたからで、例え戦争であっても簡単には破壊されないことを雄弁に物語っているのです。文化は最大の安全保障にもなるのです。

偶然かはたまた運命か判りませんが、松下幸之助氏も二階俊博氏も共に故郷は和歌山県です。お二人とも日本政府に「観光立国」を推進すべきだと提言しました。しかしこの二人の傑物の発想は多少違います。

松下氏の「観光立国」はいわゆる国益の立場から出発したものですが、二階先生の提唱する「観光立国」は疲弊する地方経済の活性化という視点から出発しています。

2005年10月、第3次小泉内閣が発足すると、二階先生は経済産業大臣に就任されました。その大臣任期中の日産村山工場が操業停止をきっかけに小泉総理に「観光振興を通じて雇用創出を促進することが日本経済の活力を取り戻す方法だ」と進言されたと聞いています。これが日本の「観光立国」の出発点であり、同時に日本が「ものづくり立国」から「観光立国」へと向かうターニングポイントでもありました。

地方都市は中国人観光客を呼び込むべき

―― 2014年、訪日観光客は延べ1341万人にのぼり、そのうち約241万人は中国大陸からの観光客で、前年比2倍強となりました。春節の休暇期間に日本を訪れた中国人観光客も約50万人にのぼりました。日本の「観光立国」の「旗手」として、このような日が来ることを予想されていましたか。この政策のための日本政府の取り組みをどう評価されますか。

藤野 私が「観光立国推進基本法案」を取りまとめた当時は、今日のような爆発的な中国人観光客の訪日は予想していませんでした。本当に安堵できる喜ばしいことです。

訪日観光客の大幅な増加は、日本の地方の消費を押し上げる効果があります。観光庁の行った試算でも地方での人口1人減少分の消費額補てんを日本人観光客で穴埋めすると約20人が必要だが、外国人旅行者だと7人で補てんできるという結果が出ています。日本人旅行者の3倍消費してくれるからです。

海外旅行者の中でも消費額が大きい中国人旅行者は地方都市にとってはありがたい存在で、もっともっと呼び込むべきでしょう。

「新年に降る雪は豊年の前兆」

―― 日中関係は依然として氷河期にありますが、中日両国の民間交流は日に日に盛んになりつつあります。「裏方」として、両国の民間交流と相互連携をどうご覧になりますか。中国人観光客の団体観光ビザを開放するに当たり何度も訪中されていますが、中国と中国人に対する印象はいかがですか。

藤野 現在、日中両国の青少年間では毎年さまざまな形で交流活動が行われています。少し前の話になりますが、一番印象深かったのは日本を訪問した中国の小学生が帰国後、「お父さん、お母さん、日本は随分違っていたよ」という感想文を書いたことです。この子は「お父さん、お母さん、僕が見た日本と教えられてきた日本とは全然違っていたよ。僕は日本で銃剣を持って街を歩く軍人は見なかった」と書いたのです。

百聞は一見にしかず、日中両国の青少年は確かに自身の感覚で実際に相手の国を知る必要があります。このような最も直感的な交流のやり方は日中両国の青少年にとって非常に大切なのです。

私が二階大臣とはじめて中国を訪れたの2000年1月初旬、当時の何光偉旅遊局長(観光大臣)との会談の席で、窓の外に降る雪を見ながら中国側の政府要人が日本語で「お正月に降る雪はその年の豊年を約束してくれる良い兆しだ(「瑞雪兆豊年」)」という中国の言葉を話して下さり、中国も日本も四季折々の変化をきめ細やかに感じ取り生活に活かしていく民族なのだとつくづく感じ入りました。そして私はふと自分の故郷・広島の田舎の田園風景を思い起こし、心の中に温かいものが溢れました。中国人と日本人の感性、情緒は実に似ていますし、共通していると思います。

編集後記:

インタビュー終了後、恒例の揮毫をお願いした。藤野会長は少し考えた後、「愛」という一字を書いてくださり、若い頃は男女の愛に関心があるかもしれないが、私の歳になると心のなかにあるのは人間愛だとおっしゃった。写真/本誌記者 張桐