川島 真 東京大学大学院准教授
第一次世界大戦100周年、日中はともに新しい東アジアの構築を

東京大学大学院の川島真准教授は、日本の著名な歴史学者、政治学者であり、中国近代史および外交史研究の専門家である。今年6月には、日本の国家安全保障会議のサポート組織である国家安全保障局の顧問に就任した。日本の国家安全保障会議は米国NSC(National Security Council)の日本版として知られ、国家安全保障局はその中核である。今年は第一次世界大戦100周年であるが、現在、中日関係が最も緊迫している。8月19日、東京大学教養学部に川島真准教授を訪ね、第一次世界大戦が中国、日本、ひいては近代の中日関係に及ぼした影響について中国語で語っていただいた。

日本は日英同盟を理由に参戦

―― 今年は第一次世界大戦100周年です。日独青島戦争では第一次世界大戦で唯一、アジアが戦場になりました。日独青島戦争開戦前、元老・井上馨は「これは『天佑』(天の加護)である。参戦すべきだ」と発言しました。日本が参戦した目的は何だったとお考えですか。

川島 井上馨は確かに「天佑」と言いましたが、参戦に反対した元老もいました。彼等は、日本とイギリスは同盟国でしたが、いったん参戦すればヨーロッパの軍事情勢に巻き込まれ、大量の軍隊をヨーロッパに送れば日本は滅びると警戒していました。そこで日本は、参戦地域を原則としてアジア太平洋地域に限定しました。

日英同盟には、「其ノ領土權又ハ特殊利益ヲ防護セムカ爲交戰スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ發生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟國ハ直ニ來リテ其ノ同盟國ニ援助ヲ與ヘ協同戰鬪ニ當リ講和モ亦雙方合意ノ上ニ於テ之ヲ爲スヘシ」と明確にあります。したがって、ドイツがイギリスに宣戦布告した時、日本はイギリスを援護することになったのです。日本はドイツの租借地だった青島を攻略し、海軍基地を手に入れました。あまり知られていませんが、サイパンなどを含む南太平洋上の島々は当時ドイツ領で、ドイツと日本は隣国だったのです。そのため、日本軍はそれらの島々にも進軍し一部を占領しました。

―― 実際には、イギリスは日本の参戦を憂慮して局限的な参戦を要求しました。ところが、日本は5万人の陸軍と2万人の海軍を派遣し、青島に駐留する5千人のドイツ軍を攻撃しました。日本はなぜイギリスの要求を聞き入れなかったのでしょうか。

川島 ドイツ軍の実力を考慮したうえで、日本の勝算を考えて派兵したのでしょう。しかし、日本も戦場を原則としてアジア太平洋地域に限定していたのです。ドイツの中国での権益についても、山東での権益を手にすることは考えていましたが、それも基本的に中国に返還しようと考えていました。ただし、その前提条件として、中国に日本の関東州(旅順・大連租借地)の租借権や南満洲鉄道など鉄道利権の長期化と固定化を求めていました。日本は山東地域を占領統治しようとしたのではなく、交換条件にしたいと考えていたのです。

日本は交戦地域を越えて山東を占拠

―― 日本は当初、山東半島の北側の膠州湾から侵攻しましたが、後に南側からに改め、やがて山東全省を攻略しました。全戦を通して日本は鉄道と駅を重視し、駅を攻略するとその都度公表しました。1914年の日独青島戦争は、1923年に関東州の租借権が切れることを睨んでのものであったとの分析もあります。

川島 そのとおりです。当時日本は満州で3つの大きな権益をもっていました。関東州租借地と南満州鉄道と安奉鉄道です。しかし、これらの権益にはすべて期限がありました。このうち関東州租借地は、租借期限が1923年に設定されていました。日本の本当の目的は関東州の権益の長期化と固定化でした。中国は山東と満洲利権の長期化、固定化を交換条件にしようとしたのです。このような意図は日本の外交文書に明確に記録されています。

中華民国北京政府は、日本軍が膠東半島の龍口に上陸する前、第一次世界大戦に対して中立を宣言していました。この中立には2つの意味があります。1つは、中国はドイツやオーストリアと交戦しないこと。いま1つは、中国を戦場にしないということです。1901年の北京議定書により、列強は中国の北京から沿岸部にかけて駐屯することができるようになりましたが、中国に駐屯しているイギリス軍とドイツ軍が開戦すれば、悲劇に見舞われるのは中国だからです。国土を戦場にさせないために、中国は中立を宣言したのです。

しかし、これに対して、ドイツの海軍基地を攻撃しようとする日本は中国側と交渉して交戦区域を膠州湾周辺に設定して、ドイツの租借地を攻撃しました。しかも中国側の認めた交戦地域を越えて日本軍は進軍し、事実上山東半島の広汎な地域をその勢力下におきました。当時の日本は、ドイツの山東での核心的利益は膠州湾の海軍基地と内陸に伸びる鉄道であると見なして、海軍基地と鉄道沿線などを占領したのでした。

日本は国際的にも単独で行動

―― 日本の国内情勢や国際情勢から見て、日本がその2カ月余りの日独青島戦争で得たものは何だったのでしょうか。

川島 まず、イギリス・フランス・ロシアなどの協商国に仲間入りできたこと。これは、戦後の大国としての地位を確固たるものにすることに繋がると考えられました。次に、サイパン島など太平洋上の多くのドイツ領の島々を獲得したこと。そして中国には、山東地域を占拠したことの交換条件に満州の租借期間の延長を実現しようとしたことです。

―― つまり、日本の参戦は、名目は同盟国イギリスのためと言いながら、実質的には中国東北地方の権益拡大のためだったということでしょうか。

川島 名目は無論重要ですが、実質的な利益はさらに重要です。日本にとって中国は巨大市場であり重要な投資対象国でした。しかも、1914年から1918年の間、欧州の列強は欧州での戦争に集中していたため、中国への関心が薄れていましたから、日本にとっては絶好のチャンスだったのです。

―― この戦争は日本の国際的地位にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

川島 日独青島戦争終結後、日本は中国に直ちに二十一箇条要求を提出しました。しかし、この政策は失敗だったということができます。当時の日本と中国の関係は、単純な二国間関係ではなく、列強との問題でもありました。中国をどう扱うかは国際政治上の大きな問題だったのです。

1901年の北京議定書以後、日本は欧米列強と協調関係を結び、中国に対して行動を起こす際には、欧米列強との協調が大原則となっていました。

ところが、日本が1915年に提出した二十一箇条要求の第一号から第四号までの14箇条の内容は事前に列強に伝えられましたが、第五号にある7箇条の内容は全く伝えられなかったのです。その内容こそ中国の主権に最も深く関わるものでした。

第五号の内容が列強国に伝えられなかったことで、日本への信頼は失墜しました。それまで日本は、英米列強国との協調を対中政策の基調としていました。ところが、アメリカを除く列強が戦争只中にあった1915年、日本は一方的な要求を直接、中国に突きつけたのです。このことが列強の不信感をつのらせました。戦争終結後の1922年、英米が間に入り日本は山東の租借地を中国に返還しました。二十一箇条要求に基づく諸条約や協定で日本が獲得した権益の大半は中国に返還されたのです。しかし、日本が数年間の単独行動によって獲得した、関東州の租借権は99年に延長されました。南満州鉄道と安奉鉄道もそうです。これは中国にとって大きな損失でした。しかし、その他の方面では日本の行動は抑制され、また幣原喜重郎もそれに応じて、再び中国をめぐる列強間の協調体制が築かれたのです。

中華民国北京政府の外交成果

―― 中国北洋政府の外交に対する評価は高くないようですが、第一次世界大戦における中国の外交をどう評価されますか。

川島 まず袁世凱についてですが、中国の学者は一般的に、二十一箇条要求に対する外交政策は失敗であったと認識しています。しかし私は、袁世凱の対応力、交渉力、闘争力を評価しています。袁世凱は交渉の過程で、多くの情報をひそかに英文雑誌や新聞に漏らし、諸外国が日本に圧力をかけるように仕向けました。さらに彼は、日本を牽制し、時間稼ぎをしました。また、日本が本当に欲しがっているのは満州の権益だと知り、交渉を遅らせ、戦争の終結を待って、欧米列強がアジア太平洋地域に戻って来るのを待ったのです。当時中国は中立国であり、袁世凱は戦争終結後、中立国の立場でパリ講和会議に参加しようとも考えていました。ですから、彼が生きている間、中国は参戦していませんでした。彼の死後、中国は参戦しました。多くの中国人は袁世凱の外交を「売国外交」だと非難しましたが、実際は当時考えられる手段を用いて、外交戦を展開していたのです。

この戦争の成果を見てみたいと思います。第1に、中国は参戦によって、1922年には、ドイツから日本に渡っていた山東権益を取り戻すだけでなく、1921年にはドイツと平等条約を結んでドイツへの義和団賠償金の支払い停止を勝ち取りました。1900年の義和団事件でドイツ公使が北京で殺害され、1901年の北京議定書で、中国はドイツに最高額の賠償金を支払うことになりましたが、この戦争でドイツが破れたことにより、その後の支払いを免れたのです。また、オーストリアとも平等条約を締結しました。ドイツやオーストリアの租界なども中国政府により回収されたのです。これこそ、中華民国北京政府の大きな外交成果の1つです。

第2に、モンゴルは長くロシアの強い影響下で自治をおこなっていましたが、1917年のロシア革命による政治的空白に乗じて中国は軍隊を派遣し、モンゴルを占拠しました。これはモンゴルからすれば好ましい歴史ではないと思われますが、中国からすれば外交上の成果でした。

第3に中国は戦勝国としてパリ講和会議に参加して自らの立場を発言しましたが、その内容は1921年から1922年にわたって開かれたワシントン会議まで影響力をもちました。

第4に、中国は戦勝国として、欧米列強国と共に国際連合の前身である国際連盟に加わり、非常任理事国になるなど国際社会における大国になろうとしました。

第一次世界大戦は日中関係のターニングポイント

―― 日独青島戦争を含む第一次世界大戦は、当時の中日関係にどのような影響を及ぼしたとお考えですか。

川島 明治維新以降の日中関係を見ると、第一次世界大戦はターニングポイントだったと言えます。日本は日清戦争(1894-95)で中国に勝利しましたが、その後、日中関係は悪化するどころか、その後の10数年間には、中国から多くの官僚や知識人が日本に留学しました。ところが、1915年に日本が中国に二十一箇条要求を突き付けてから、中国の知識人や一般大衆の日本に対する見方が変わり、日本に留学経験のある中国人は、中国社会や政府内で次第に冷遇されるようになりました。また、1915年以降、中国では排日運動が多発するようになりました。五四運動もその一つです。

日中はともに新たな東アジア地域を構築すべきとき

―― 第一次世界大戦時の中日関係は単純な二国間関係ではなく、国際社会の枠組みの中での複雑な関係であったと繰り返し強調されましたが、今日の中日関係についてはいかがでしょう。

川島 近代史を見れば、中国はアヘン戦争(1840-42)以来ずっと敗戦国で、列強への多額の賠償金を強いられてきました。列強は北京の公使団を組織して中国政府に対して絶大な影響力をもち、時に北京政府に圧力を加え、事実上の国際管理に近い状況となりました。ですから、当時の日中関係は単純な二国間関係ではなかったのです。

現在、中国は独立国家であり、経済も独立し財政的にも何も問題ありません。また、欧米等いかなる国も中国の内政に圧力をかける権利はありません。ですから、第一次世界大戦当時とは全く状況が異なります。この点を押さえておかなければならないでしょう。しかし、日中関係は依然として単純な二国間関係ではありません。日中関係は東アジア地域全体に影響を及ぼす重要な2国間関係です。

1980年代末から1990年代初頭にかけて、東西の冷戦は終結しヨーロッパではベルリンの壁はなくなりました。しかし、東アジア地域には依然として38度線や台湾海峡問題を抱えています。これらの問題を「解決」することができれば、東アジア地域は新たな局面をつくり出せるでしょう。

現在、東アジア地域には、世界第2位の経済大国である中国と第3位の日本、さらに、世界経済の上位に位置する韓国や台湾などの国・地域があります。われわれが住む東アジア地域は、世界で最も経済が繁栄している地域と言えます。これは凄いことなのです。われわれが自らこの繁栄を破壊するようなことがあってはなりません。

いま、中国は日本がそれを破壊しようとしていると言い、日本は中国が破壊しようとしていると言って、互いに譲りません。38度線と台湾海峡問題が解決しないうちに、新たな対立が生まれかねません。第一次世界大戦から100年のいま、われわれはそういった状況をつくってはなりません。ともに新たな東アジア地域をいかに構築していくかを考えるべきです。(撮影/叶農)