宮川 俊彦 国語作文教育研究所所長
中国の大学生には思想家のDNAがある

「言語には、その国固有の歴史、感情、地理的な条件、倫理観が反映されている。ある国の言語を理解し用いることができれば、行かなくてもその国の人になることができる。一つの国の言語を学んだ人は、その国の特性を表現できるからだ」。表現教育の第一人者である宮川俊彦氏はこのように話している。著作は100冊以上ある。4月12日、国語教育の現状、活字離れの問題等について話を聞いた。

 

日本の国語教育には欠点がある

―― 日本は他の国と違って、作文の書き方、論文の書き方といった本がよく売れますね。しかも、中学、高校の受験生や大学生だけでなく、サラリーマンもよく買っています。こうした現象をどのように見ていますか。

宮川 作文というと、普通は小学生が書くことだと考えるでしょう。論文といえば、作文よりもレベルが高く、大学生が書くものだと思うでしょう。実際は、今の専門家や学者が書いているのは、論文と呼べるようなものではありません。こうした人も含めた大多数は、表現手法の上では作文のレベルです。これは、私が作文表現教育に力を尽くしている理由の一つです。大学在学中から、書き方の指導、作文教育を始めて40年以上になります。私以前にはこの分野を開拓した人はいません。自分で言うのもおこがましいですが、この分野での豊臣秀吉です。

中国は古代から文化立国を提唱しています。文とは人で、社会でもあり、国家そのものでもあります。国民すべてが、同じ言語、同じ表現方法を用い始めて、その国も形成されていきます。こうした単純な概念です。

日本は明治維新以後、この概念に忠実に国語教育を進めました。同じ言語で様々な事物を定義づけて制限します。そして、学生にこの定義を学ばせて、この制限を守らせます。さらに、学生がほんとうに理解したかどうかをテストします。例えば、織田信長がどういう人物であったか、また豊臣秀吉がどういう人物であったかを学生に教えることは、定義になります。学生はこの定義を暗記し、自分の考えで話してはいけないので、これは制限になります。テストの時は、織田信長も豊臣秀吉も出題されます。こうした国語教育システムは、小学校から大学まで、さらに学校を卒業して社会に出てからも続きます。社会に出て公務員になったとしても、公文書を書く時には、この定義と制限に従います。

皆が同じ国語教育システムのもとで教育を受けるので、同じ言語で同じ話し方をします。ですから、個性、感性、日本の伝統文化、その他の国から吸収した文化をどう「表現」してよいか分からないのです。こうした国語教育では同じような人がたくさん出てきます。協調性はあるが完全でなく、考えられない、発言できない、創造力がない人などです。

福沢諭吉も「日本人は他の国の人と一緒に学んで討論になると孤立してしまう。それは自分の見解がなく、頭を動かして考えることができないからだ。どういうふうに話したら、人に笑われずに満点をとれるかだけを考えて、自分の考えや意見を述べるのは傲慢だと思っているのだ」と話している。

私がこの40年努力してきたのは、日本語教育の欠点を補い、国語の教育システムを立て直すためなのです。いかに日本人に考えて、発言させ、創造させるのかを研究している時、私が思いついた方法は一つでした。それは小学校の頃から作文指導をし、書いた作文で討論させることでした。討論の過程で自分の見解を形成させ、様々な表現で自分の考えを表すのです。

最近、日本人もこのような問題を徐々に認識してきています。これも作文の書き方などの本がよく売れ、文部科学省が私の仕事を支持してくれる理由です。

 

青少年の問題は国家の未来

―― 先生の著書は100冊を超えています。青少年犯罪や家庭問題についての著書も多いですね。こういう問題に興味をもたれるのはなぜですか。

宮川 国の過去を理解し未来をみたいと思うなら、いちばん早い方法は若者を見ることです。現在、若者に起きていることは、将来、社会と国が直面する問題です。

いわゆる青少年犯罪や青少年問題は、自殺でも殺人でも、不登校にしても、学校で問題を引き起こすにしても、どれも若者が選んだ表現形式なのです。青少年犯罪については、環境要因と当事者の思考との両側面から分析をして、予防しなくてはなりません。犯罪が起きて逮捕してから罰するのは、秦の始皇帝が法家思想に基づいて実行したことと同じです。もし法家のやり方が本当に問題を解決するなら、秦が漢に倒されることはなかったでしょう。

日本は深刻な学校のいじめ問題がありますが、罰としていじめっ子を立たせたり、何日か停学にさせても、根本的な問題の解決にはなりません。日本の社会はいじめられる子を、いじめられやすい体質だと決めつけたり、また同情を寄せます。そして、社会はいじめる子どもたちを犯人扱いします。これは問題の本質を見極めていません。

問題の本質を見極めていない状態で教育と指導が行われているので、日本の教育は岐路に立とうとしています。教育が岐路に立っているということは、日本の国自体が岐路に向かっていることです。私が青少年の犯罪に関心を持つのは、問題の本質を理解するために、この方面の資料をたくさん集めて分析したいと思っているからです。

家庭問題に関心を持っているのも、同様の目的です。国は無数の家族から成り立っています。しかし、今日の日本の家庭は心のつながりが欠如し、家族間の血は水より濃いという感情がなくなっています。中国の人の家庭をみる度に、家族が強く団結しているので、残念に感じます。日本の社会では、多くの人が個人主義を重視し、家庭があっても家族はバラバラです。家庭内暴力、家庭内別居もこうした原因によるものです。

 

書籍の電子化は選択すべき

―― 近年、「活字離れ」が日本の新しい社会問題になっています。東京都は「『活字離れ』対策検討チーム」を立ち上げました。日本の若者の「活字離れ」をどう思いますか。

宮川 東京都、政府、出版界が若い人の「活字離れ」に対応するために検討していますね。その前に、どのような情報を活字にすべきで、どのような情報は電子化してよいのかを分類するべきだと思います。

携帯やパソコンで一目見て分かるような情報は、活字にする必要はなく、電子化してもかまわないでしょう。伝統文学、文化のように伝承していくべき情報は電子化せずに、活字で継承していくべきです。

さらに、政府と各出版社は「活字離れ」に対応するため、小中学生に朝10分の読書運動を行いました。こうした運動を通して、データーでは確かに小中学生の読書時間が増えていますし、小中学生は読書が好きになったと取材に応じています。

ですが、私はこの結果に懐疑的な見方をしています。私の分析調査では、小中学生が読書しているのは、ほとんど娯楽的で内容が浅い本です。面白い本を読んでいるのに、読書時間として計算しているのであれば、データの数値は上がっても、「活字離れ」を改善することにはなりません。

日本の出版界も気をつけてほしいです。若い人が本や新聞を読まなくなり、電子製品での読書を好むからといって、本を全て電子化するのはよくありません。

実際、大人でも子どもでも、人は敏感な洞察力を持っていて、それらの情報は自分が把握する必要があるのか、本当に把握しなければならないのかすぐに認識できるのです。そして、そういう情報は、活字で触れたいと思うのです。村上春樹の発売されたばかりの本を買うために、徹夜で並んだ人がたくさんいたことがこのことを如実に表しています。

 

中国は文明国

―― 先生は中国の南開大学の客員教授ですが、中国の学生を指導されて、中国と日本の大学生はどう違うと感じましたか。また、中国の印象はどうでしたか。

宮川 父は陽明学の研究者で、父の書棚はすべて中国の古書でした。安岡正篤先生は有名な陽明学者で思想家ですが、父は自慢の弟子でした。私が南開大学の客員教授になった時に、父はたいへん喜んでくれました。この大学に貢献するようにと、いつも私に話しています。

私の心の中で、中国は文明国です。中国でその文化的な雰囲気に浸れることを、とても嬉しく思っています。中国人と日本人は違います。中国人には思想家のDNAがあります。思想家のDNAを持つ人とおつきあいできることは嬉しいです。

南開大学の学生たちは機転が利いて聡明です。南開大学の日本研究院で講演したことがあります。講演内容は難しくて、なじみのないものでした。それにも関わらず、学生たちはみな理解でき、驚くべき質問も出ました。例えば、夏目漱石の小説には、なぜ臭覚についての描写がよく出てくるのかと。このような質問を日本の学生から受けたことはありません。彼らの思考力と分析力には敬服し感動しました。南開大学の副校長とはおつきあいがあり、良き友人です。南開大学の図書館に「宮川俊彦文庫」ができると、「もう、いつ死んでもいいでしょう。財産はここに保管されていますから」と私に言いました。「そんなに急いで死なせないで下さいよ。これから何年も生きたいですよ」と、私も笑いながら答えました。

南開大学で多くの中国の学者に接しましたが、その研究姿勢と実績には頭が下がります。この頃の日本は功利的な学者が多く、本を出すことやテレビに出ることばかり考えています。研究するという目的が研究から逸脱しています。今の日本には真の意味での大儒がいないのは、残念ですし悩ましいことです。研究の分野で日本は中国に負けていることを認めざるをえません。実は、中国と日本の大学生による討論会の開催を計画しています。ですが、正直言って、私が接した日本の大学生のなかで、中国の大学生のレベルに相当する学生がみつからないのです。日中間には政治上の摩擦がありますが、こんな時期だからこそ、両国の文化、経済、学術界はより多く交流すべきであり、日中の大学生討論会を開く必要があると考えているのです。