白西 紳一郎 社団法人日中協会理事長
青年よ、日中の歴史を学び、未来を切り拓け!

社団法人日中協会の白西紳一郎理事長は、1967年の初訪中以来、46年間に訪中歴は500回を上回る。これまで、習近平国家主席、李克強総理をはじめ、歴代の中国指導者と交流を深めるなど、中日友好の井戸を掘った一人である。中日平和友好条約締結35周年の佳節にあたり、現状の中日関係の打開策、首脳会談に向けての課題などについて、7月11日にお話を伺った。

 

日中問題は

中長期的に考えるべき

―― 「釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題」におけるいわゆる「棚上げ論」については、「合意があった」「記録がない」など、様々報道されていますが、今後、この問題をどのように解決すれば良いと考えますか。

白西 「尖閣諸島問題」をめぐって、最近、日本外務省内部で、OBによる見解のことなる二つの論文が出され、注目されています。

一つは、栗山尚一・元駐米大使の論文(『霞関会会報』5月号)です。結論は、「日中両首脳間のやり取りの結果、『解決しないという解決策』についての黙示の了解が生まれたと理解すべきと考え、それを『棚上げ』とよぶ」という見解。

もう一つは、池田維・元財団法人交流協会台北事務所代表、元外務省アジア局長の論文(『霞関会会報』7月号)です。結論は、「棚上げしようという合意は、これまで日中間に存在したことがない」。

私は、栗山氏の見解が歴史的に見て正しいと考えます。栗山氏は、日中国交正常化時(1972年)、日中平和友好条約締結時(1978年)の日中両国首脳の発言から、合意文書として残ってはいないが、棚上げで暗黙の了解があったとするもので、池田氏は、合意文書はないとの立場からのものです。どちらが正しいか。1972年当時、栗山氏は、条約課長として田中訪中に同行しており、首脳間の会話の中から政治的約束ごととしての見解に基づいたものでしょう。合意文書はなくても、当時の関係者のメモがやがて表に出てくれば、事実が明らかになるに違いありません。1943年のカイロ宣言で中心になった米国でさえ、「尖閣」について、日本の施政権は認めても領有権(主権)は認めていない、中立だと言っています。

「尖閣諸島問題」は、日中政府間では、中長期的に考えるしかなく、当面、鎮静化させるのが精一杯で、実際に、「尖閣」を実効支配している日本にとっては、「棚上げ」にしておいた方が有利なはずなのに、それを否定して中国といがみ合うということは、外交べたとしか思えません。今では、「棚上げ」の合意はないと言っている「読売新聞」も、1979年5月31日付の社説で「(「棚上げ」は)政府と政府のれっきとした約束事、順守するのが筋道」と言っていたのです。

日中両国政府は、過去に「棚上げ」したことを認め、係争地として100年でも話し合って解決に向かえばいいのです。日本は日本の領土、中国は中国の領土、と主張していることを互いに認め、主張が違うことを認め合う、外交用語でいう<アグリー トウ ディスアグリー>、即ち、相手の主張が認められないことを認め合う、ということです。

日本政府は、「日中間に、領土問題はないが、外交問題はある」などと言わずに、政治的に見て「棚上げ」(先送り)の合意はあった、とさえいえば首脳会談・外相会談の道は開かれるのです。その勇気がないのであれば、日本は、「尖閣」に上陸しない、調査しない、建物・灯台・船泊まり等を作らない、の三つを守り、中国は、空と海による挑発と受けとられる行為を自粛する。領海内外での活動は、互いに自国領土と認め合うのだから、双方、慎重に行動し、武力衝突は絶対に避けることです。そのために両国は、至急に危機管理のルール・措置策を外交ルートで作ることがぜひ必要です。

 

中国は「脅威」ではない

―― 近年、中国の急速な経済発展、空母の就航などによる“軍備拡張”など、日本の政府・学者の中でも「中国脅威論」が取りざたされています。日本国民はどのように受け止めていくべきでしょうか。

白西 日本のマスコミなどで「中国脅威論」が喧伝されていますが、「脅威」は、能力・意図・環境の三つで判断すべきで、中国の軍事能力は確かに近年増大していますが、他国を侵略する意図はないと中国政府は再三表明しています。

問題は、中国を取り巻く環境です。東アジアの軍事力においては、日本+韓国+台湾+極東米軍と中国が対抗しており、どう見ても前者が軍事費・戦力とも上回っていることは明らかでしょう。弱者の中国が強者に立ち向かい、既成の秩序に挑戦しているとみられるとき、「中国脅威論」が過大に宣伝されるのです。「東アジア共同体」を作る中で「脅威論」は薄くなっていきますよ。

日本国民は、感情論ではなく、理性的に冷静沈着に考えるべきだし、「日米安保」で利益をえている米国の一部勢力の反中国論に組みすべきではありません。米国の軍部はなんとしても日中を対立させ、「日米同盟」対中国という図式にして、沖縄などのオスプレー配備を正当づけたいわけです。ところが、かつて石破茂・元防衛庁長官でさえ、都内での国際シンポジウムで「中国は脅威でない」と言っているのですから。

 

「四つの政治文書」を遵守し

「二つの紳士協定」を尊重

―― 5月、安倍首相は「村山談話」を継承する考えを改めて示しました。理事長はこれまで、中国政府の要人・高官と会談を重ね、中日関係の打開策を探っておられますが、問題のポイントは何か。中日首脳会談に向けての最大の課題は何だとお考えですか。

白西 日本の植民地支配と侵略を反省するという1995年の「村山談話」は、立派なものです。98年11月の小渕総理・江沢民国家主席の間で発出された『日中共同宣言』(日中関係の<四つの政治文書>のうちの3番目)で、引用され、日本が中国に約束した国際約束です。このいきさつから見ても、安倍総理は「村山談話」を否定できません。

日中間では、「四つの政治文書」の遵守と次の「二つの紳士協定」を尊重することです。一つは、A級戦犯をまつる「靖国神社参拝問題」で、1986年8月(中曽根内閣)、日本は、総理・外務大臣・官房長官は、参拝を控えるとしたこと。二つは、「尖閣諸島問題」で、前述したように、「棚上げ」で暗黙の了解をしたことです。「四つの政治文書」の遵守と「二つの紳士協定」を尊重すれば、日中関係は前進します。

日中は、隣国同士であり、ヨーロッパで言えばフランスとドイツの関係に似ています。仏・独は、アルザス=ロレーヌの資源問題で、何回も戦争して奪い合いましたが、欧州連合(EU)を作る中で、たとえもめ事がなくても、両国首脳が年に何度も対話を重ね、平和友好関係を維持しているではありませんか。日中は、この1963年の「仏独協力条約」(エリゼ条約)の精神、とりわけ一年に15万人の青年交流を続けていることに学ぶべきだと思います。

―― これまでお会いした歴代の中国指導者の中で、最も忘れられないエピソードをお聞かせください。

白西 一枚の大切な写真をお見せしましょう。それは、今年3月、総理に就任した李克強氏が、1985年に〈北京大学学生訪日団〉をひきいて来日したさい、私の千葉・幕張のせまい公団住宅に通訳を連れてホームスティしてくれ、夕食をともにした時の写真です。28年前のものですから、すっかりセピア色になっています。その時は、国際情勢に非常に明かるい人だな、と感じました。

清華大学で有機合成を専攻した習近平国家主席と北京大学で近代経済学も学び、経済学博士を持つ李克強氏が、同じ年代、互いに切磋琢磨して、中国国民の生活を豊かにし、アジアと世界の平和に貢献してほしいものです。

 

「互恵」は「互敬」に通じる

―― 日本内閣府の「外交に関する世論調査」でも中国に対する親近感は近年、下落傾向にありますが、理事長は、なぜ中日友好にご尽力されるのですか。

白西 なぜ、日中友好が必要なのか、と問われれば、私はいつも〈論語〉の「近者説、遠者来」という孔子の言葉を書くことにしています。葉公(しょうこう)が政(まつりごと)の何かをと問うたところ、孔子は「近き者、説(よろこ)べば、遠き者来たらん」と答えたのです。私は、日本と中国が、互いに仲良くして隣同士でよかった、と喜び合えば、遠い米国やソ連は、どうしてそんなに仲が良いのか、と問いに来る、という意味に解釈しています。

日本は、中国人の智力・労働力、市場・資源力・ハード力・文化歴史力・観光力などに期待しているし、中国は、日本人の環境・省エネの技術力・ソフト力・勤勉・清潔・便利力などに興味をもっています。互いに相手が必要なのです。

日本と中国には、「好き」か「嫌い」か、という感情論ではなく、「必要」か「必要でない」か、という理性的判断が求められているのです。中国が、いま、自然の環境汚染から脱却するには、日本の経験と技術力が必要であり、日本がアベノミクスを成功させるためには、どうしても中国の経済力が必要なのです。

アジアの平和と発展は、日本と中国の友好以外に選択肢はありません。日中の戦略的互恵関係は、2008年に当時の福田総理と胡錦濤国家主席の間で定着しましたが、「互恵」は「互敬」に通じます、尊敬し合える隣人になりましょう。

私も、齢73になりました。若い人たちに友好のバトンタッチをしなければなりません。青年諸君、日中の歴史を学び、未来を切り拓いて下さい。

 

  <PROFILE>

 白西  紳一郎(しらにし・しんいちろう)

社団法人 日中協会 理事長

1940年、広島市生まれ。京都大学東洋史学科卒。67年、日本国際貿易促進協会の事務局に入って初訪中。その後「現代アジア」編集長などを経て、75年の日中協会設立に伴い幹事、79年から事務局長。81年に協会が社団法人化した後、理事、常務理事を経て、2000年から現職。